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田村隆一詩集・補遺

坂に関する詩と詩論

 もういい。一言も語るな。過剰……その地点まできて、おまえは石を蹴った。「石の中に私の眼を!」そして講が私の生に躓くか。おまえは私に背中をむける。そうだ、これで私の孤独も充分というものだ。おまえは黙って歩きだす、再び邂うために、それとも生涯邂うことのないように、水脈みおひくような薄青い時間の中で、私は呟く、「振りかえったらそれまでだ」水脈みおひくような薄青い距離をつくって、おまえは無言で私から遠ざかる、私の唯一の孤独を背に閉じこめて。そこから、坂がはじまっていた。

 秋になった。もし運命というものが私の肉体の裡にしか現われないならば、私の精神の裡に喚起されるものは何か。かかる時、私は詩を書かねばならぬ。詩を書くこと、つまリ肉体にとって運命が確実な抵抗を意味するならば。

 表象 だが何という黄昏 何という私の痕跡 私は坂をのぽる その極限にまで 風は私の衰えた額に影を落とし 石の中に私の眼を 土の奥底に私の耳を埋めて その極限にまで! だから私は坂をのぼるのだ

 灰色だな この勾配は 私はそういう抵抗を欲する 壁なんかあリやしない どこまでも青磁に暮れて その夜の果てまで坂はつづくのだ 私への抵抗 私のための灰色の勾配は

 坂をのぼる いまは一心に風に堪え 抵抗を瞶めて 坂をのぼる 振りかえったらそれまでだ 私の痕跡よ もう一人の私よ ついて来い 何処までも私について来い

 私の半生に於ける唯一の絶望期に在って、私は自我愛と自虐との両極を私の内奥に持つ。その中間を満たし得るものは何か、何者であるか。夜が来た。おまえに坂がまだ見えるか!

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