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田村隆一詩集・補遺

目撃者

狙われている!
窓の外で僕は立ちどまる
こういう時だな 外套の襟をたてるのは
かたかたと鳴っていたっけ 石が
固い表情を崩さずに待っていたっけ 僕が
石の中で不意に動くおまえの眼
かつて僕のものであった正確な眼が いまでは逆に僕を狙う
僕は全身で待つ
僕の背中を抜けてゆくものが たとえ美しい幻影であろうとも なんでそれが僕の役に立つものか
よろしい もうしばらくの辛抱だ
僕が倒れる そこですべてが過ぎ去るという仕組だ
そうだ ほんの少しの屈辱で足りるのだ
僕が倒れる そこでおまえが僕の背中を抜けてゆくという仕組なのだ
友よ 本当に風は吹いても来なかったか
僕は煙草をくわえる
どうか一切の静止から遁れられるように
どうかおまえが考えるそのように僕にすべてが感じられるように
雨! 僕はおまえの手を握る

僕は起きているのかも知れない たった一つの固い椅子に背をもたせて
僕は何か書いているのかも知れない 不眠の白紙をひろげて
窓を閉めたまえ 雨がふってきたようだ
誰かが椅子から身を起す
どれもこれも見飽きた眺めだね その男は窓を閉めながらぼそぼそ咳きはじめる
あいつにしたってそうだ 男は同じ調子でつづける
あいつとは一体誰のことだ 僕は思わず反問する
狙われているのです あいつは しかし或いは…… 男は僕に背中をむけたまま口ごもる
何のことだ 君は何を言おうとしているんだ 訳もなく僕は苛立ちはじめる
私には言えない 何も語れない 瞶めることです あなたの眼で!
音楽の時間だった 僕は椅子から立ち上る
わたしの椅子が倒れる わたしの部屋の椅子が遠いおまえの部屋の椅子に呼びかける
おまえの椅子が倒れる おまえの部屋の椅子がもっともっと遠くの方にいる誰かの椅子に呼びかける
雨! 椅子が濡れはじめる
誰かがわたしの手を握る そして
音楽の時間には誰でも椅子から立ち上るものだ
窓を閉めたまえ 誰かの真似をしておまえがわたしに囁く
わたしはわずかに笑う 雨がふってきたようだとおまえは言うまい
わたしはわずかに笑う そのあとで無気味さがやってくる 窓はわたしを残酷にするだけだ

窓の外で僕は立ちどまる
窓の内側のあの二人の男たちは何を話しあっているのだ
ここでは彼らの言葉が聴えない
椅子が倒れる だが窓の外では椅子の倒れる音も聴えないのだ
何事か起るに違いない
僕は窓の内側を覗きこむ
すべてがはっきり見え過ぎる 僕には
それが恐ろしい
おまえの手が濡れてくる
おまえの手は震えている だがおまえの眼だけは正確だ
僕は信じる 狙いは決して誤またず一分の狂いも生じまい そういう確信がかえっておまえの手を震わせる
何事か起らねばならぬ いまは引金をひく時だ
見たまえ!
男は窓際まで歩いてくる 男がもう一人の男に重なる瞬間を待つがいい
最上の瞬間! 美しい幻影が僕の背中を過ぎ去らぬうちに捕えること
僕は信じるだけだ かつて僕のものであり いまではおまえのものである正確な眼を
鈍い音がする 丁度あのぼそぼそ呟く男の声に似ている……
倒れながら僕は感動する 少しは泣いているのかも知れぬ ……椅子が倒れるようなものだった
倒れる椅子のように僕は呼びかける
  窓の内側で倒れる椅子よ 僕の内側で倒れる不眠の男よ
恐らく最上の瞬間がおまえに硯きこみ果しなく問うだろう
聴かせてくれ 目撃者は誰なのだ!

僕は窓から身を離す 歩かねばならぬ 選ばれた少数の窓をふたたびひらき また閉ざすように 結末まできて目撃者は立ち去らねばならぬ おまえの手から わたしの窓から

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