オーディオ・アナライザ HP 8903B の不調と修理

                                〜オーディオ・アナライザ HP8903B編〜


  











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 HP 8903Bはとっくに生産が終了してますが、いまだに名機の誉れ高いオーディオ・アナライザです。スペック的にはパナソニックやシバソクなどの同等機種の方がより高性能ですが、残念ながらそれらは簡単な取説以外の詳細なサービスマニュアルが公開されておらず、故障すれば私達のような一般ユーザーはまずお手上げです。

 これに対して、HP 8903Bの場合は半導体からCR類、ねじ1本に至るまで全使用部品のリスト、回路図、部品配置図、トラブル・シューティングの詳細な手順などを記した400ページを超えるサービスマニュアル(残念ながら英文)がダウンロードでき、こと親切さという点では他社とは雲泥の差があります。

 購入(もちろん中古)にあたって、8903Bにした決定的な理由はこのマニュアルの存在だったのですが、おかげで部分的な歪み率悪化という変化球≠ノ対して、悪戦苦闘しながらも無事に自力修理できました。それにしても、千数百点のパーツがぎっしり詰まった中身の複雑なこと! もし、同じ症状で他社製品だったとしたら、確信を持って「ギブアップ」していたと断言できます。



【症状】

 最近、低域の自己歪み率(残留歪み)が異様に大きくなっているのに気づきました。100Hzの歪みが0.005〜0.007%(発振器出力1.5V、80kHzLPF =ON)と正常時の2〜3倍もあります。

 数年前に購入直後のメモによると100Hzの歪みは0.0024%、1kHz=0.0022%、10kHz=0.0022%(いずれも発振器出力1.5V、80kHzLPF =ON)。1kHzと10kHzは今も購入当時と同じ数値を出してますので、低域側がおかしくなっていると判断せざるを得ません。

 どの辺りから歪み率が変化しているのかチェックしてみると、155〜156Hzに明瞭な分岐点が。156Hz以上はずっとそのまま0.0022〜0.0023%で一定ですが、わずか1Hzしか違わない155Hzだと一気に0.004%台に跳ね上がり、周波数が下がるにつれて歪み率が漸増していくものの特定の周波数で歪み率が凸凹する様子は認められません。

 正常な156Hz以上については温度変化の影響は全く出ませんが、155Hz以下になると室温上昇に伴って歪み率も高くなる温度依存性のようなものが見られます。また、温度が上がると表示される歪み数値がコロコロ変動して不安定さが増します。

 なお、周波数と発振出力はどの帯域でも十分に安定しています。

 


 【トラブル・シューティング スタート!】
 
 症状が確認できたところで、ともかくアナライザのカバーを外して内臓を見てみたいとなるのが人情ですが、ここはぐっと我慢して現状でも可能なトラブルが起きている範囲の絞り込みを進めます。

 上記の症状を引き起こす可能性のある部分は
@発振器部分
A歪率計部分
B悪くすると@Aの複合
C可能性はごく低いが電源部リプルが悪さをしてる
といったところでしょうか。

横河・ヒューレット・パッカード社が1988年に公開した日本語版8903B操作ガイドには、歪み率測定の際のブロック図(右画像)が載っており、発振器ブロックと他のブロックは共用電源を除き、内部的に独立してます。つまり、外部発振器を接続して正常に動作すれば、歪率計部分は正常ということになります。

 そこで、8903Bの内蔵発振器の代わりに低歪率発振器(YHP4494A)をセットして残留歪み率を見てみると、左上画像のように100Hzで0.0014%と全く問題なし。このYHP4494Aは8903B以上に古い機械ですが、可聴帯域の残留歪みは0.0005%程度を確保しており、100Hzで0.0014%という結果はHPが公開している8903Bアナライザ部のみの歪み代表値と一致します。


 従って、上記ABはシューティングの対象から外せることとなり、トラブっているのは内蔵発振器と推定しても大丈夫そうです。


【目指せ ハラワタ】

 中身を覗くため、以下の手順で作業を進めます。

 まず、背面にねじ止めされている4個のプラスチック脚(赤マル部分)をを外します。ごく普通のプラス・ドライバーでOK。 
 通気孔がいっぱい開いた灰色カバーは上面と底面に分かれており、それぞれ背面中央部の1カ所でねじ止めされてます。

 ねじの上にはご覧のような「破損無効」の警告シールが貼られてますが、メーカーの修理サービスも終了していることだし、無視します。

 ねじは「トルクスねじ」という六角星形の特殊なタイプで、専用のドライバーが必要ですが、ホームセンターへ行けば数百円で売ってます。
 上面カバーが外れました。

 電源部を除いて、アルミの静電シールドカバーに覆われてますので、2本のトルクスねじ(赤マル部分)を外して、シールドカバーを開けます。
 シールドカバーを外すと、やっと全体像が拝めます。

 ほぼ40センチ角の巨大なマザーボードの上に、計11枚のユニットが垂直に取り付けられています。

 中央部、緑色の引き抜きレバー(矢印)が付いているのが、目指す発振器ユニットです。

 仕組みはよーわかりませんが、美しい眺めではあります。

 

 【必須資料の入手】

 ハンダごてを握るまえに、トラブル・シューティングにあたっての必須資料を入手しておかねばなりません。

 HP8903Bは当初、日本ではHewlett-Packard社と横河電機の合弁による「横河・ヒューレット・パッカード」社が扱ってました。その後、合弁は解消され、HP社本体から1999年に分社化された「Agilent Technologies」社の扱いになります。

 さらに2014年以降は、「Agilent Technologies」社から分社化された「Keysight Technologies」社の扱いに変わりました。2015年6月現在、HP8903Bの校正サービス(約8万円〜)はまだ受け付けてくれますので、懐に余裕のある方はどうぞ。また、内容によっては修理も可能みたいですが、懐事情から今回は問い合わせすらしませんでした。

 「Keysight Technologies」社のサイト
 http://www.keysight.com/main/techSupport.jspx?searchT=8903B&id=1000002339:epsg:pro&pageMode=OV&pid=1000002339:epsg:pro&cc=JP&lc=jpn

からテクニカル・データ(日本語)、操作ガイド(日本語)など数種類の資料がPDFで入手でき、特に重要なのがサービス・マニュアル@とA。合わせて421ページにも及ぶ大冊で全て英文ですが、英和辞書と高校時代に習った英語知識の断片が脳みそに残っていれば、なんとかなります。


【発振ユニットとご対面】

 これがトラブルの潜んでいる発振ユニットです。

      



 このままでは何が何だかさっぱり???ですので、サービス・マニュアルAにある部品配置図と回路図を取り出します。

     

    


 これで何となくアウトラインが見えてきました。回路図の上半分が発振部分、下半分はレベルコントロール部分みたいです。

 発振部分回路図の中央には二つの積分回路が備わっていることなどから、「状態変数型発振方式」と呼ばれるタイプのよう。

 私たちアマチュアにとっては自作しやすいウィーン・ブリッジ発振方式がなじみ深いですが、状態変数型発振方式はウィーン・ブリッジ発振方式より構成が複雑になるものの、はるかに低歪みで安定した発振出力が得られるのが特徴とされています。


【マニュアルでのシューティング】

 いよいよマニュアルAと首っ引きでトラブル・シューティングの実行です。

 基本的には、8903Bのフロントパネルにあるテンキーから指示されたテスト数字を入力、発振器ユニットに設けられた11カ所のテストポイントなどに現れる周波数、ACやDC電圧、波形などを次々とチェックしていく方式。機材として歪み率計、周波数カウンタ、オシロスコープ、ACミリボルト・メーター、DC電圧計が必要ですが、幸い、8903Bの発振器以外は正常なのでこれが使え、外付け機材はオシロだけで済みました。

 チェック項目は約60。その大半はひとつあたり5分もあれば十分ですが、一部には、テスト棒を入れるのが物理的に不可能な場所を「ここを測ってね」と指定する項目も。そのたびにユニットを本体から外して指定箇所にリード線を半田づけ、再び組み付けて引き出したリード線の先端で測定、終わればリード線の取り外しとユニットの再組み付け・・・というめんどくさい作業の繰り返しを余儀なくされ、休み休みの二日がかりでした。

 さて、結果はというと、なんと「問題なし」。指定許容値ギリギリというのが1カ所見つかったものの、測定器の誤差の範囲なので、トラブルの原因とは思えません。

 人間ドックを受けたら「要治療」はおろか「要経過観察」項目すら見あたらない「健康体」との判定、でも現実には軽い頭痛が続くので結構辛い、といったところですか。

 マニュアル記載のシューティングを終えてさすがに疲れがどっと・・・。でも、原因は不明のままですが、いくつか収穫はありました。発振回路の動作自体には基本的な問題が起きていないとわかったこと、あれこれ延々とテストを繰り返したことで回路図からはなかなか理解しにくい(粗雑な脳みそのせいで・・・)各部分の振る舞いを体感できたこと、などです。

 とくに、後者で得られた知見は重要で、これが最終的に問題解決に繋がりました。


【再び範囲の絞り込み】

 気を取り直してトラブル部分の絞り込みを進めます。

 HP8903Bの発振範囲は公称20Hz〜100kHz(実際にはもう少し広い)。トラブルはこの内の20Hz〜155Hzに限って発生、それ以外の帯域では全く問題ありません。ということはつまり、複雑な回路の中で20Hz〜155Hzの範囲の発振の際にのみ利用される部分が怪しいはずです。

 それは一体どこなのか? 改めて回路図を眺めてみると、ありました!
 二つの積分回路のうちの下図の赤点線囲み部分がそれ。

   


 この部分は、発振させたい周波数に応じて帰還コンデンサの容量を4段階に切り替える仕組みで、切り替えはFET(Q12〜14、Q25〜27)を使ったアナログスイッチで自動的に行われます。

 使われているコンデンサ容量の大小からみて、回路図の上から下に行くに従って割り当て周波数が高くなるはずですので、トラブっている低域部分は回路図一番上のQ14+0.18uFとQ27+0.18uFを経由すると思われますが、念のため推測が当たっているかどうかテストしてみました。

周波数帯による各回路の開閉状況
Q14(Q27)+0.18uF Q13(Q26)+0.0223uF Q12(Q25)+2470pF 51.1Ω(51.1Ω)+350pF
20Hz〜約155Hz ON OFF OFF ON
約156Hz〜約1.6kHz OFF ON OFF ON
約1.6kHz〜約10.2kHz OFF OFF ON ON
約10.2kHz〜100kHz OFF OFF OFF ON


 予想通り、Q14+0.18uFとQ27+0.18uFラインが生きた時のみ、歪み率の高くなっている周波数帯(20Hz〜約155Hz)が発振されました。

 そこには、JFETの2N4391や0.18uF±1%のフィルムコンデンサが計4個あるだけですから、どれかの劣化が原因と思われます。


【部品交換&どんでん返し】

 FETとコンデンサ、どっちがおかしいのか?

 どっちにしても、漏れ電流が増加した影響だと思うのですが、取り外しが簡単なコンデンサの方からチェック。

 0.18uF±1%なので、許容範囲は0.1782〜0.1818uF。LCRメーター(YHP4262A)の実測値は0.1817uF、0.1818uF(テスト周波数120Hz)とよく揃っており、絶縁抵抗値も300MΩ(某A社のDMMが正確なら)以上あって、普通は「問題なし」と判断する状態でした。
 
 コンデンサにはアリバイが浮上したので残る容疑者はJFETの2N4391となりますが、ここで難題発生。データシートを見ると、アナログスイッチやサンプル・アンド・ホールド回路向けなどに開発されたNチャンネルJFETですが、随分と古い製品なので千石電商、秋月電子といったお馴染みの店では入手不可能です。


 検索をかけると、半導体専門業者間では若干ながらもまだ在庫流通があるようですが、こうしたところはほとんどが「個人お断り」。
 

 幸い、個人取り引きも可能なコアスタッフ社(zaikostore.com)でも扱っていて助かりました。


 左画像で下ふたつの赤マルが容疑者FETのQ14とQ27、上ふたつの赤マルはそれぞれに繋がる0.18uFコンデンサです。


 FETを交換、自信を持って電源を入れたのですが・・・な、な、なんと、以前と全く変わりません。歪み率は相変わらず0.006%前後をフラフラ動き回り、無実の働き者を犯人に仕立てた無能オヤジをあざ笑ってます。


 ここでまた気を取り直し(それにしても一体何度目だ?)、アリバイを主張されて一旦は釈放したコンデンサと向き合うことに。

 あいにくと手元に0.18uFがないため、0.1uFと0.082uF並列で実測容量0.1805uFのものを2個作って置き換えてみると、ついに悪戦苦闘が報われる時が!! 

 真犯人はQ14とくっついている一番上側の赤マルのヤツで、こいつを交換したら症状はピタリとおさまりました。 
 

【電源部のお手入れ】

 電源出力は±15Vと+5Vの三本立て。いずれもシリコンダイオードで両波整流したあと、シリーズ・レギュレータなどで安定化されていて、マニュアルは残留リプルを1.4mV以下としています。

 ±15Vラインの残留リプルが許容上限に近づいていたので、平滑用電解コンデンサ(3600uF/40V 右画像)を交換、ついでにレギュレータ周りと発振器ユニットのタンタル・コンデンサ類も全部交換しました。

 残留リプルは0.9mVまで減ったものの、歪み率は0.0002%程度の改善にとどまり、結果的にはこの部分にあえて手を入れる必要はなかったです。
 

【最終結果】

 最終的な修理結果がこれ。画像は入れてませんが、50kHzでは0.0031%。低域も含め全体的に購入当時より歪み率が若干良くなったのは、電源部残留リプルが減ったためのようです(発振器出力1.5V 20Hz〜20kHzは80kHzBW、50kHzは500kHzBWにて)。



 <参考データ>は、HP社公開の8903Bテクニカル・データ(日本語版)で紹介されている歪みレベルの代表値グラフです。


 代表値の算出には平均値、中央値、最頻値のどれかが利用されるとか。どれに基づいたにしろ、当然ですが代表値よりかなり優秀な個体がある一方、逆に相当「なまくら」なヤツも含まれてます。


 赤線は修理を終えた当機のデータで、僅かずつですが代表値を上回っているので、個体として「当たり」の部類でした。


【おわりに】

 ということで無事に修理が完了、トラブルに直接からむ部品代は安価なフィルムコンデンサ4個(画像中央の抱き合わせ部分)計100円ちょいで済みました。

 ぺるけさんが「私のアンプ設計マニュアル・・・測定編」で「なお、オーディオアナライザはかなりのベテランでも自分で修理することは不可能だと思ってください。中を開けてみてその複雑にぎっしり詰まった様子をみたらわかると思いますと書かれてます。齢だけがベテランの私も、今回挑戦してみて、このアドバイスを実感しました。

 カバーを開け中を覗いても、本当に何が何だかさっぱりわかりません。回路図やその概略説明、詳細なトラブル・シューティング手順とそこで示される各部分のAC・DC電圧の許容範囲などの情報が得られなければ、どうあがいても修理が徒労に終わるであろうことが容易に想像できます。

 私の知る限りではありますが、ほとんどの企業の製品はこうした情報がクローズされ、ユーザーにはブラックボックス化されています。そんな中で、HP社製品は1980年代の古いものであっても詳細なマニュアルがダウンロードできることも多く、成功するか否かは別にして自力修理・校正への意欲をかきたててくれました(かなりのヨイショですが、HPの回し者ではありません・・・念のため)。

 高価な測定機器類を新品でというハッピーな立場とは縁遠いので、修理サービスが終了している中古機器をやりくり算段してやっと手に入れるのが関の山。それだけにスペックよりも、トラブった時に自力修理の可能性があるかどうかが機種選びの最重要ポイントになってしまってます。悲しい性です・・・ハイ。  (2015.07.08)


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