【恩師】

恩師が亡くなった!!
平成19年4月14日、午前六時ごろ旅先の九州福岡のホテルのソファーで眠っているが如く
亡くなられていた、と!!

不幸中の幸いで、妻の姉が同じ村に住んでいて、たまたま散歩中に聞いたと電話してきてくれ
た。早速主だった方に電話して参列した。遺影に向かった瞬間、信じられない気持ちで「有難
うございました」と念じた途端、胸が詰まり涙がこみ上げた。八十一歳になられていた、と。

自分の人生にとって、また今日の自分が、家族があるのは恩師が居られたからこそ。まだまだ
先生には、その報恩ができていない。心のこりが一杯。他にも先生を慕い、想う友人も多い。
M先生をはじめ合唱団の有志も飛んで来ていた。でも一般の多くの友人は、それ程でもないよ
うでもある。それはそれで普通であろうし、先生への自分の関わりの違いであろう。ともかく
恩師のお一人が亡くなった衝撃の日である。

祈るのは「在々諸仏土常与師倶生」である。即ち、先生が生まれられる処
、常に同じ生を受け、
また先生から指導を受けて、自らをたかめて行ける人生を歩めることを願うばかりである。

先生への手紙にも書いたが、とにかく色んな想い出が一杯ある。暗くなった職員室で、先生が
終戦を迎え、突然、生き方の根本を狂わせられて悩み、いつか畑違いの社会から音楽の教師と
なったこと。また何度となくオペレッタから生き方を教えてもらえたこと等、数えれば切がな
い。その先生が亡くなった。もう現世では会えないのだ。もう逢って話しも出来ないし、手紙
も出来ないのだと思うと、なんとも悔しさが込み上げる。

でも、人間、いつまでも生きられない。先生のように、生きて名を下すことなく、自分も誠実
に生きとおしたいと、改めて決意する。唯々ご冥福を祈り、心から御礼申し上げたいと思う。

一方「恩師」というと、一般的にはキザに聞こえるかも知れないが、生涯を通じての「恩師」
を持つ人は少ないように思える。人生にとって、師匠を持つかどうかが大事である。
よく聞くと、学校時代の教師・教授であったり習い事の師匠であったりするが、「先生」を、
「師匠」とするかどうかは、自分自身の問題である。生涯に亘って、更に「生き方」にまで
関わる師匠を持つ人は少ない。その「恩師」によって、我が人生に深く影響し、考え方や生き
方が変わり、常に身近に意識し生活し、仕事をし生きてきた。

どれだけ逢わなくとも、どれだけ距離が離れていようとも、常に恩師と対話しながらの人生は、
如何ほどにも安心出来た歩みであるか。また、どれだけ誇りを持っての人生であることか。
別項で「師弟」について思うことを書いたが、全く同じことである。たったお一人の「恩師」
を持てることだけでも、どれだけ幸せなことであるにも拘わらず、自分には三人もの「師匠」
と胸を張って言える「恩師」を持つことが出来た。

嗚呼、幸いなるかな我が人生。定年後丸五年を迎え、今は何の憂いもない。別にお金持ちでも
なければ貧乏でもない。子供達も現役時代に独立し、親に心配なことを掛ける様子でもなし、
隣近所や村の方々からも大事にされて、思うときに孫を見に海外へも行け、趣味の工作にも没
頭でき、心深める信仰ができ、生涯「生きがい」に満ちた人生を、生き切りたい。
                                    合掌

                  
師匠と弟子