2017.10.04 京都国立博物館「国宝展」

京都国立博物館で開催されている「国宝展」行ってきました。

 

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001吉祥天像_薬師寺 

麻布に吉祥天を蛾眉豊頬の唐代美女風に描く。斜め向きの構図から大画面の一部とする説もある。薬師寺で吉祥悔過がはじまった宝亀3年(772)頃の作とみられる。数少ない天平絵画の遺品として貴重である

005釈迦金棺出現図_京博

釈迦如来が涅槃に入った直後,摩耶夫人は天から駆けつけ,釈迦の金の棺に取りすがって嘆き悲しんだ。ときに,釈迦は神通力をもって棺の中から身を起こし,母のために説法したという,仏教説話を絵画化したもの。本図はこの主題を大画面に劇的に構成した平安時代後期の作品で,日本の仏教絵画を代表する傑作の一つといえる。

006釈迦如来像(赤釈迦)_神護寺

神護寺では、高雄山寺時代から法華会を開いており、高雄の法華会はのちのちまで神護寺の名高い行事であった。この釈迦如来像も、おそらく法華会に用いるために製作されたのであろう。肉身は金色とし、朱衣には七宝つなぎの截金文様に彩色の円花文を散らしている。朱衣の周辺は、反暈または照暈といって、白くぼかされている。仏画の最盛期である院政時代の趣向を反映した優婉な作品

007普賢菩薩像_東博

舞い落ちる花の下で白い象に乗る普賢菩薩を描いた、平安時代後期の仏画を代表する作品。普賢菩薩は、文殊菩薩とともに釈迦如来の脇に従う菩薩であるが、法華経を唱えて修行する者があれば、六本の牙をもった白象に乗って現れ、守護すると説かれている。数多い普賢菩薩像のなかでも屈指の名品であり、和様化した平安時代後期の仏画の典型である。

011千手観音像_東博

千手観音は、千の手と千の眼を持ち、生きとし生けるものを救う。両脇に天女姿の功徳天(吉祥天)と婆藪仙(ばすうせん)が従う三尊形式。観音と功徳天のからだは細い墨線の上から朱でぼかしをかけ、観音の着衣には金箔や金泥とともに、金箔をきわめて細く切った截金(きりかね)で一面に文様をほどこしている。精緻な截金の表現は平安時代の仏画の中でも特に美しい。

012山越阿弥陀図_京博

いま臨終しようとする信仰者の前に、阿弥陀如来と菩薩たちが西方極楽浄土から迎えに来た場面を描いている。本作品は山の向こう側に阿弥陀たち が半身を現すという図様になっており、こうした一群はとくに「山越阿弥陀図」と呼ばれている。中央の山あいからひときわ大きな上半身を現してい るのが阿弥陀如来で、頭に後光を戴き、両手は来迎印という印相を結んでいる。

013阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎)_知恩院

高くそびえ立つ山岳を越え、観音菩薩・勢至菩薩を先頭に阿弥陀如来と諸仏が念仏行者のいる館に来迎する様が描かれています

014六道絵1_滋賀・聖衆来迎寺

鎌倉時代の作。源信の『往生要集』に説く六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天)のありさまを絵画化したもので、全15幅からなる。15幅は東京・京都・奈良の各国立博物館、大阪市立美術館、琵琶湖文化館に分割寄託されている。

017絵因果経_東京芸術大学

絵因果経(えいんがきよう)は仏伝経典の代表的なものの1つである『過去現在因果経』の写本の一種で、巻子本の下段に経文を書写し、上段に経文の内容を説明した絵画を描いたもので、日本において平安時代以降盛行する絵巻物の原初的形態とみなされている。

027地獄草子_奈良博

詞6段、絵7段よりなる絵巻で、尿糞地獄、亟量地獄、鉄磑地獄、鶏地獄、黒雲沙地獄、膿血地獄、虎狼地獄の7処を描く。活達な画風で、絵仏師系統の画家の手になるものと推定される。餓鬼草紙や病草紙と並ぶ六道絵の名品。(縦26.1p 全長434.5p)

030病草子_京博

様々な奇病を集めて絵巻物にしたてたもので、寛政期の模本によれば、名古屋の歌人大館高門のもとに15図1巻の形で所蔵されていたが、現在このうちの9図が国有となり、それ以前に断簡となって逸出した図が諸家に分蔵されている。

031信貴山縁起絵巻

信貴山の中興の祖である命蓮にまつわる霊験を描いた絵巻で、飛倉巻、延喜加持巻、尼公巻の3巻からなる。闊達な筆致と流動的な構図で、人物や場景の生彩に富む描写が特色。平安時代末の作

032粉河寺縁起絵巻_粉河寺

紀伊の観音霊場粉河寺の本尊にまつわる縁起を描くもので、前半(二段)は、猟師の発願によって千手観音堂が建立された由来、後半(三段)は観音の化身が河内の長者の娘の病を癒し、それに感謝して一族皆出家して、粉河の別当となったという霊験物語を描く。

034一遍聖絵_神奈川・清浄光寺

一遍上人絵伝は、伊予国に生まれ浄土宗を修めたのち、新しく独自の宗旨である時宗を興した開祖一遍(遊行上人)を描いた絵巻。奥書により、1299年(正安1年)一遍の弟子にあたる聖戒が詞書を起草し、法眼の地位にあった画僧の円伊が絵を描いた。一遍の活動を忠実に記録し、その活動のようすとともに各地の寺社や名所の景観を取り入れた点は特筆に値する。

035法然上人絵伝_知恩院

 

元祖法然上人の生涯を描いた絵伝ですが、その誕生から入寂に至る行状のほか、法語、消息、著述などの思想もあらわし、さらには門弟の列伝、帰依者(天皇、公家、武家)の事蹟までをも含んで四十八巻に構成されています

047秋冬山水図_東博

 

雪舟作、もと、「夏冬山水」として京都の曼殊院(まんしゅいん)に伝来した「秋景山水図」「冬景山水図」。四季山水図4幅対のうちの2幅とも考えられる。

048四季山水図巻(山水長巻)毛利博物館

 

四季山水図は、雪舟芸術の中で最高傑作といわれ、一般には「山水長巻(さんすいちょうかん)」の名で知られている

049破墨山水図_東博

 

雪舟の作品。画家自ら記した題があり、本図が1495年雪舟76歳の時に弟子の宋淵に与えたものという。題中に「破墨」の語があり、古来「破墨山水」の名で著名である。画上に月翁周鏡ら6僧の賛がある。

050慧可断臂図_愛知・斉年寺

宗の初祖・達磨が少林寺において面壁座禅中、恵可という僧が彼に参禅を請うたが許されず、自ら左腕を切り落として決意のほどを示したところ、ようやく入門を許されたという有名な禅機の一場面である。リアルにあらわされた面貌と一点を凝視する鋭いまなざし、そして動きの少ない構図が画面全体に息苦しいまでの緊張感を生み出している。77歳の老禅僧雪舟のたどりついた境地がここにあらわれているとみるべきであろうか。

051天橋立図_京博

 

雪舟(1420〜1506頃)筆とみなされている作品である。 図にはほぼ中央に天橋立の白砂青松と智恩寺が表され、その上方に阿蘇海をはさんで寺社の林立する府中の町並み、さらにその背後には巨大な山塊と成相寺の伽藍が配されている。

052山水図_雪舟筆

室町時代の禅僧であり、水墨画家でもある雪舟の晩年の作品です。 岩の上に立つ二本の松を中心に据え、手前には複雑に交差する大小の岩や小径、背後には広々とした湖水や楼閣などが配されています。近景の山や岩に見られる墨のタッチには雪舟の老齢感を感じさせますが、高さを強調した師・周文の構図法を踏襲しつつ、景色や物を明確に表現し幾重にも重ね合わせる画面構成は雪舟ならではのものです

056楓図壁貼付_智積院

 

「桜図」の完成の翌年に亡くなった息子久蔵の突然の死を悲しみ、創作意欲を失いかけましたが、息子の分まで精進しようと自分を鼓舞し、楓図を描き上げたといわれます。桜図と同様な豪華さで楓の古木が枝をいっばいに広げ、その下には様々な草花がみごとに配されています。
息子の死という悲痛な思いを乗り越えた力強さと、落ち着いた秋の雅が感じられる等伯五十五歳の時の作品です

059高雄観楓図屏風_東博

 

高尾清滝川のほとりで紅葉を楽しむ武士,僧侶,婦女子等を描く。背景は右方に神護寺をのぞみ,左方では愛宕山の雪が冬の訪れを告げる。画面左端に「秀頼」壺印がある。狩野派による近世初期風俗画の早期遺例として貴重である。

061風神雷神図屏風_建仁寺

 

款記も印章もそなわらないこの屏風が、俵屋宗達(生没年不詳)であることを疑う人はいない。尾形光琳も、さらにそのあとの酒井抱一も、これを模倣した作品を制作しているのは、彼らもまた、この屏風が宗達筆であることを微塵も疑っていなかったからである。ここに貼りつめられた金箔は、描かれる物象の形を際立たせ、金自体が本然的にもっている装飾的効果として働いている。そればかりではなく、この屏風においては、金箔の部分は無限の奥行をもつある濃密な空間に変質しているのである。つまり、この金箔は、単なる装飾であることを越えて、無限空間のただなかに現れた鬼神を描くという表現意識を裏打ちするものとして、明確な存在理由をもっている。傑作と呼ばれるゆえんがここにある

 071瀟湘臥遊図巻_東博

現存する中国・宋時代の水墨山水画の中で、もっとも優れた作品の一つ。かつては北宋末の文人画家李公麟(りこうりん)の作と伝えられ、清の宮廷では顧ト之(こがいし)の『女史箴図巻』(じょししんずかん)などとともに、乾隆帝コレクション中の四名巻の一つとして珍重された

075紅白芙蓉図_東博

李迪は中国・南宋の宮廷に仕えた画家(画院画家)で、この時代を代表する1人。この芙蓉図は現存する李迪の最高傑作である。各図に押された「慶元丁巳歳李迪画」の落款から、南宋の慶元3年(1197)の作とわかる。2幅の図は、本来はそれぞれ独立した冊仕立の作品であったと思われるが、日本の茶の湯の美意識から生まれた唐絵鑑賞に合わせて、対幅に改装された。

080六祖挟担図_大東急記念文庫

南宋時代の作品。直翁は南宋末の禅僧画家。宋末の禅余画界に流行した罔両画風の流れをくむ。慧能(えのう、諡は大鑑禅師、638年2月27日(貞観12年2月8日) - 713年8月28日(先天2年8月3日))のこと。范陽(河北省涿州市)の盧氏出身の禅僧で、中国禅宗(南宗)の第六祖である。

081宮女図(伝桓野王図)

男装した宮廷の女官を描いた一幅。伝来が室町時代まで遡る証拠(鑑蔵印など)は無いものの、『室町殿行幸御餝記』所載の泉殿会所の御北向之御殿に飾られた「御絵 官女一幅舜挙」や、『御物御画目録』(東京国立博物館蔵)の独幅項目にある「官女 舜挙」が本図に当たると推測される。古来より銭選の作品として著名であるが、「銭選之印」白文方印が基準印と異なり、写し崩れとみられる不明瞭な部分も見られることから、元時代に宋時代の院体画を模して制作されたと推測される

084禅機図断簡(寒山拾得図)東博

寒山と拾得は、天台山国清寺に住み、豊干(ぶかん)禅師に師事したといわれる唐代の伝説上の人物。寒山拾得の絵は、宋代以降、禅僧たちの間で好まれた。「禅機図」とは、禅宗にかかわる逸話を主題としたもの。

085広目天立像_法隆寺

怒りをあらわにせず乗り物のような大型の邪鬼の上で直立する古様なスタイルの四天王像。光背に刻まれる山口大口費と同一とみられる人物が日本書紀白雉元年(650)の条にみえることから、製作年代が推定される

086銅板法華説相図_奈良・長谷寺

法華経見宝塔品に基づき、地中より三重宝塔が湧出し、千仏が雲集して釈迦説法を賛嘆する場面をレリーフであらわす。道明上人が天武天皇の為に朱鳥元年に造った、長谷寺草創に関わる遺品である

087梵天立像_唐招提寺

四天王像とともに金堂の須弥壇上にまつられる。一木造りだが、表面には乾漆も盛られ、森厳な相好や重厚な体躯には盧舎那仏との近似性も認められる。台座の見えない箇所には多くの戯画が描かれている。

088虚空蔵菩薩立像_醍醐寺

2015年(平成27年)国宝指定、醍醐寺山内の子院・菩提寺に虚空蔵菩薩として伝えられた像で、台座蓮肉及び天衣垂下部を含み榧の一材より彫出する。作風より九世紀前半の製作とみられる。複雑に交錯する衣文を深く克明に刻み出す彫技は見事で、平安前期檀像の代表作の一つである。

089薬師如来坐像_奈良博

両手先以外の本体と台座の蓮肉までを,檜あるいは榧の一材を用いて造った一木造りの彫像。奥行のある重厚な像で,顔の目鼻立ちや着衣の襞の彫り口は鋭く,平安初期彫刻の特色が顕著に見られる。もと京都の東山山麓の若王子社に伝来したものと伝えられる

090僧形八幡神坐像・神功皇后坐像_薬師寺

薬師寺の鎮守八幡神社に伝わった像で、当社が勧請された寛平年間(889〜898)の作と推定される。一木造り彩色仕上げになる。量感ある体躯や翻波式衣文は平安初期彫刻の特色である。初期神像彫刻の傑作

091兜跋毘沙門天立像_東寺

像高189.4cm。もと平安京の羅城門楼上に安置されていた像。天元3年(980年)羅城門が倒壊したとき、何者かによって、瓦礫の中から掘りだされ、東寺に運ばれたという。使われている木は、中国産の魏氏桜桃である。中国・唐時代の作。宝物館に安置。

093雲中供養菩薩像_平等院

鳳凰堂中堂内部の長押(なげし)上の小壁(こかべ)に懸けならべられている52躯の菩薩像。この群像も定朝工房で天喜元年(1053)に制作されたものです。 南北コの字形に阿弥陀如来を囲んでならんでいます。南北半数ずつに分けて懸けられ、各像には南北1から26までの番号をつけています

095多聞天立像_浄瑠璃寺

平安時代後期の作。当初の彩色と截金文様がよく残っている。4体のうち広目天は東京国立博物館、多聞天は京都国立博物館に寄託。他2体(持国天、増長天)は本堂内に安置

096大日如来坐像_大阪・金剛寺

真言僧阿観が八条院の帰依を得て建立した河内金剛寺金堂の本尊像で,3メートルを越える巨大な大日如来像を中尊とする三尊像である。中尊は金剛寺の草創 期である1180年前後の作で,大きさ,できばえともにこの時代の大日如来像 を代表する作例と言え,光背・台座に弘法大師空海に由来する図像的な特色を示 す点でも注目される。

097不動明王坐像_大阪・金剛寺

不動・降三世明王は最近の保存修理で銘文が確認され,仏 師快慶の弟子,行快が天福2年(1234)に造ったことが判明した。三尊としての構成は智証大師円珍が中国よりもたらしたとされる尊勝曼荼羅に依拠しており,この図像になる唯一の遺品としても貴重である。 

098金銅錫杖頭_善通寺

金銅製で輪の中に二組の阿弥陀三尊と四天王を背中合せに鋳出し、製作は精緻で優れている。中国の唐の作で、古く日本に伝来し、錫杖のみならずわが国の金工技術にも影響を及ぼしたものとして意義深い。極めて類品の少ないもので、錫杖の代表作である。弘法大師将来の寺伝がある。

099金銅蓮華文磬_京都・禅林寺

鋳銅。低平横長の形で、弧の曲線はやや特異な形を示している。総体に厚手なつくりで、全面に肉取自在に蓮唐草文を鋳出して間に魚子をまき、表裏同文として鍍金している。意匠、形姿とも優れており、鋳技仕上げも美しい。平安時代の華麗な趣味を遺憾なく発揮している

100中尊寺金色堂堂内具のうち金銅華鬘

華鬘とは花輪のこと。団扇形の内側には極楽に咲くといわれる宝相華(ほうそうげ)を透かし彫りにし、中央に総角結びのかざり紐、左右には極楽に飛ぶ人面鳥・迦陵頻伽(かりょうびんが)を彫り起こし、浄土世界を演出している。

102金銅密教法具_嚴島神社

三種の杵と五鈷鈴、金剛版の皆具。当初の一具と見られ、その形姿は温雅優麗の中にも鋭く、繊細ながらも技巧に流れず、鎌倉時代の製作にかかる和様密教法具の最高峰をなす貴重な遺品

103金銀鍍宝相華唐草文透彫華籠_滋賀・神照寺

華籠は法会の際に散華を盛る器で、竹や乾漆製のものもある。本華籠は、銅の円板を皿形に打って、その全面に宝相華唐草文を地透かしにし、鍍金、鍍銀を施したものである。自在に鏨を駆使して優婉な趣を発揮しており、彫金工芸の遺品の中でも屈指の優品といえる。

104赤韋威鎧_岡山県立博物館

本鎧はかつて備中国赤木家に伝来したもので、兜の眉庇の染韋や金銅据文金物など、一部に鎌倉時代の改変が加えられているものの、総体に製作当初の姿をそのままに伝え、かつ大型三ツ目札を用いる点、草摺を前後四段、左右五段下がりとし、前の裾を分割しない点、菱襷に撫子、桜草、獅子の丸文などの染韋、粒の粗い星を有する小振りな兜鉢など、平安時代後期の大鎧に共通する古様な形制を随所に示す

107剣無銘附 黒漆宝剣拵_大阪・金剛寺

姿と鍛が最も秀でた古で、この型のものは極めて少なく、焼落とした刃文や地刃の特色から平安時代を下らないものと判断される。寺伝には中興開山阿観上人の持物といわれている

108太刀銘 備前国友成造_東博

備前国の鍛冶のうち、鎌倉時代初期に興った一文字派以前の刀工を古備前と呼んでいる。友成は正恒とならぶ古備前を代表する刀工で、古来より永延年間(987〜989)頃に活躍したと伝える。この太刀は、友成の作品のなかでも最も古い時期のものと考えられ、細身で腰反りが高く、踏ん張りがついて小鋒(こきっさき)となった古様な太刀姿を示している。

109太刀銘 正恒_文化庁

古備前正恒の代表作の一口である。鍛えと刃文は正恒の典型であり、しかも健全である

113青磁鳳凰耳花入_和泉市久保惣記念美術館

南宋時代浙江省竜泉窯で焼成され、舶載された作とみられる。室町時代にはすでに名器として珍重されたことがうかがえ、三代将軍家光の時、東福門院に贈られ、のちに公弁法親王に遺贈された。万声とは後西院が「��月千声又万声」の詩句によって名付けられたもので、近衛家に伝わった鳳凰耳花生を「千声」、これを「万声」としたものとの伝来が添状および『槐記』にある。鳳凰耳花生のなかでも、とりわけ作調が丁寧で、堂々とした風格を備えた優品である。

114飛青磁花入_大阪市立東洋陶磁美術館

飛青磁は古くから茶人が珍重しているもので、釉面に点々と鉄斑文のある青磁をいう。本花生は飛青磁を代表する傑作として最も名高い。器形、作風から南宋〜元代と見られ、古く日本に運ばれて伝世したと推定されている。江戸時代以降、大阪鴻池家に伝わり、飛青磁の随一として著名であった

117玳玻天目_京都・相国寺

玳玻天目は中国出土のものがあるが、古くから伝世したものはほとんどなく、特に本茶碗のように文様が整い、釉薬が美しいものは非常に珍しいため、古来より名碗として著名である。江戸時代中期頃には、大阪の上田三郎右衛門が所持していたものを松平不昧公が入手し、大名物として愛玩したと言われる

119志野茶碗_三井記念美術館

志野随一の名碗として知られる。天正年間に大萱牟田洞で作られたものと推定され、志野の代表的名作として有名なものである。

120刺納衣_延暦寺

中国の天台宗第六祖・荊溪【けいけい】大師所用と記され、古くより伝教大師が唐より請来したと伝えられている。刺し子で作られて七条の袈裟とこの僧衣からなる。

121天寿国繡帳_中宮寺

上宮聖徳法王帝説』の繡帳銘文によると、推古天皇30年2月に聖徳太子が亡くなられたことを悲しんだ妃橘大女郎が、天寿国における太子往生の様を図像によって見たいものと天皇に申し上げ、椋部秦久麻の監修の下、下絵を描かせ、釆女たちに刺繡させて繡帷二帳ををつくったという。この一部が現存の残闕である

122四騎獅子狩文様錦_法隆寺

連珠円文の中に左右相称の獅子狩文を配した独特の文様、さらに人物の容貌や頭冠の形などに、ササン朝ペルシアの影響が見られるが、馬の尻部分に「吉」「山」の漢字が織り込まれていることから、中国で製織されたものと考えられる。複雑な文様構成であるが、文様の崩れや形式化もなく、見事な織技が見られる

123七条刺納袈裟_延暦寺

中国の天台宗第六祖・荊溪【けいけい】大師所用と記され、古くより伝教大師が唐より請来したと伝えられている。刺し子で作られた七条の袈裟(僧衣は前出)

125唐花文様横被_東寺

空海が入唐中に青竜寺の恵果(けいか)阿闍梨から授けられたと伝える袈裟で、『御請来目録』中にもその名が見える。

129沈香木画箱(法隆寺献納宝物)東博

木画とは、紫檀、黒檀、桑、沈香、象牙などの細片を組み合わせて文様を描く技法である。源流は古代エジプトやペルシアのモザイク技法にあり、東アジアへもたらされて中国の隋唐代に木画として発達した。 この木画経箱は、沈香を用いることから「沈香木画箱」の名もある。

130花鳥彩絵油色箱_東大寺

浅い印籠蓋造りの木製箱。表面には黒漆を塗った上に鳳凰や花枝をはむ鸚鵡、宝相華を彩絵し、乾性油をひく油飾技法を用いる。正倉院の密陀絵をほどこした箱や盆などと共通する趣をもつ。(蓋高3.3p、身高24.2、縦60.0p、横71.3p)

131宝相華迦陵頻伽蒔絵䆵冊子箱_仁和寺

蓋中央の2行の銘文「納真言根本阿闍梨空海 入唐求得法文冊子之筥」により、弘法大師空海が、唐で書き留め持ち帰った『三十帖冊子』を納めるために製作された箱であることがわかる

132宝相華蒔絵宝珠箱_仁和寺

内に如意宝珠を納めた箱で、宝珠を護る板絵の四天王像が共に伝わる。寛平天皇所持の寺伝があるが。奈良時代に流行した文様構成やそく(土塞)の技法を踏襲しているなど、寺伝にいう平安前期を首肯しうる数少ない蒔絵の優品の一つである

136時雨螺鈿鞍_永青文庫

和歌の内容にちなんだ図柄に、その歌の一部の文字を紛れ込ませて歌意を表現する「葦手絵」の螺鈿意匠が施された、黒漆塗の鞍。松に絡み付く葛の葉の間に配された「恋」「時雨」「原」などの文字から、慈円の「わが恋は松を時雨にそめかねて 眞葛が原に風騒ぐなり」(『新古今和歌集』所載)という歌が読み取れる。 恋の歌が、繊細かつ大胆に武人の鞍を飾っている。

137-1婚礼調度類(徳川光友夫人千代姫所用)愛知・徳川美術館

寛永十六年(一六三九)九月二十一日、三代将軍徳川家光の長女千代姫が、二歳六か月の年齢で尾張徳川家二代藩主である光友に嫁いだ際に携えた婚礼調度類の一群である。

138-1琉球国王尚家関係資料_那覇市歴史博物館

本件は尚家が代々継承してきたもので、工芸品八五点、文書・記録類一一六六点からなる。工芸品は王家での諸儀式等に用いられたものが主となり、一六世紀から一九世紀に及ぶ。工芸品のなかには王装束があり、琉球国王の王装束では唯一現存するものである。これらは琉球工芸を代表する作品が広くまとまって遺存する唯一の資料であり、琉球文化を理解するうえで貴重な伝来品であるとして、平成十四年に工芸品部門で重要文化財「琉球王尚家伝来品」として指定された。

145三十帖冊子_仁和寺

弘法大師空海が入唐中に青龍寺の恵果和尚らから修得した密教経典・儀軌などを書写し持ち帰ったもの。空海以外に、同時に入唐した橘逸勢、唐の写経生らが書写しています。また、第14帖の空海自筆の総目録によれば、本来38帖あったと記されていますが、現存は30帖のため三十帖冊子と呼ばれています

158古今和歌集巻第二十(高野切本)高知城歴史博物館

その一部が高野山に伝来したことから「高野切」と呼ばれる、古今和歌集書写本の第二十巻。高野切は古今集の写本としては現存最古であり、かつ平安時代の仮名書の完成形を示す書跡として古来より名高い。紀貫之(?-九四六)筆と伝承されてきたが、実際には三種の書風が混在し、十一世紀中頃の寄合書と推定されている。山内家伝来の巻第廿は「第一種」と呼ばれる書風を示す。抑制のきいた端正な書きぶりは、高野切の筆者三名の中で、もっとも格の高い人物の手になるものとされる

159古今和歌集巻第十七残巻(曼殊院本)京都・曼殊院

色変わりの染紙に優美な和様書体で書写された古今和歌集の写本で、11世紀に遡る遺品である。高野切本古今和歌集などと並び、平安時代の仮名の名品として知られる。京都国立博物館に寄託

160古今和歌集巻第十二残巻(本阿弥切本)京博

雲母で夾竹桃の文様を摺り出した優美な唐紙に『古今和歌集』巻第十二を書写する。巻頭から49首(132行)を収める。料紙の大きさはきわめて小さく、一紙の縦が16.7cm、横が26.6cm。文字も小さいが、運筆は巧みで筆線も弾力に富む。筆者は小野道風(894〜966)と伝えるが、もとより伝承にとどまる。

161歌合巻第六(十巻本)京都・陽明文庫

十巻本歌合(じっかんぼんうたあわせ)は、平安時代中期に編纂された、日本最初の歌合集成。仁和年間から天喜4年に至る約170年間の46度の歌合を収める。企画は藤原頼通で、源経信が編纂に関わったか。全46度の歌合のうち、38が完存、6が部分的に残り、2が散逸した。前田育徳会(巻第一・二・三・八及び巻第十の内9度(国宝))、陽明文庫(巻第六(国宝)、総目録(重要文化財)、巻第十の内1度)、東京国立博物館(寛平御時后宮歌合(国宝))ほか諸家に分蔵。現存するのは草稿本であり、未完に終わったと見られる

163芦手絵和漢朗詠抄_京博

2巻の和漢朗詠集には、1紙ごとに完結した芦手絵が描かれるが、それらはすべて文中の詩歌をキーワードにした謎かけを解くことで解説できる図柄となっており、平安貴族の優美な遊び心が込められた芦手絵といえる

164古来風躰抄_冷泉家時雨亭文庫

『古来風躰抄』は、歌人として有名な藤原俊成(一一一四〜一二〇四)が、建久八年(一一九七)、八十四歳の時に著わした歌論書で,和歌の風躰のあり方とその変遷を明らかにし、俊成の和歌論を集大成した著述として,わが国文学史上に重視されている。俊成の著した歌学書で、84歳の時の書写。 著者自筆本でこれほど古いものは世界的にも稀といわれている

165古今和歌集 藤原定家筆_冷泉家時雨亭文庫

藤原定家(一一六二〜一二四一)が嘉禄二年(一二二六)に書写した『古今和歌集』(二十巻)で、中世以降の『古今集』研究に多大の影響を与えたいわゆる「嘉禄本古今集」の原本である

167土左日記_大阪青山歴史文学博物館

わが国最初の仮名日記として著名な『土左日記』の写本である本書は、藤原為家(一一九八−一二七五年)が嘉禎二年(一二三六)に、紀貫之(八六八−九四六年)の自筆原本を、仮名の字体や文章の表記等を含めて忠実に書写したものである

179尺牘(板渡しの墨蹟)東博

中国・南宋時代の無準師範(1177-1249)は、諸山の住持を歴任したのち、径山万寿寺(きんざんばんじゅじ)の第34世住持となった禅僧。その弟子には、鎌倉の円覚寺の開山となった無学祖元(むがくそげん)、建長寺第2世の兀庵普寧(ごったんふねい)ら日本に渡った名僧や、嘉禎1年(1235)、南宋に渡って印可を受け、のち京都・東福寺の開山となった聖一国師(しょういちこくし)円爾弁円(えんにべんえん)らがいる。

182墨蹟(「月林」道号)京都・長福寺

『月林道号』(げつりん どうごう)は、泰定4年(1327年)3月、古林が月林道皎に書き与えた「月林」の道号。号のあとに七言絶句一首の偈があ

184墨蹟 無学祖元筆_京都・相国寺

「墨蹟」とは、本来、書蹟・筆蹟などと同義語で、紙や絹などに墨筆で書かれたもののことですが、日本においては特に禅宗の高僧の書を意味します。 鎌倉時代に中国の禅宗社会との交流が盛んになると、中国・日本両国の高僧たちが遺した書は師から弟子へと仏の教えを伝える証として尊重され、「墨蹟」と呼んで伝承されるようになりました

185墨蹟(遺偈)東京・常盤山文庫

清拙正澄(1274-1339)は元時代の高僧月江正印の実弟にあたる。日本からの求めに応じて嘉暦元年(1326)に来日、建長寺、浄智寺、円覚寺に住したのち、後醍醐天皇の勅命によって上洛、南禅寺・建仁寺の住持をつとめた。この墨蹟は暦応2年(1339)正月17日、死期を悟った清拙が弟子のために筆をとった末期の句である。

188深鉢形土器(火焔型土器)十日町市博物館

「新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器」とは、有名な火焔型(かえんがた)土器を含む928点の出土品で構成されている国宝の正式名称です。火焔型土器は、立体的な装飾に富み、優れた原始造形美を有する土器です。その独特な形や文様は、近隣各地の土器様式の影響のもと、今から約5300年前に信濃川中流域で成立し、同地域において約500年間にわたり継続、発展したと推定されています。

189土偶(縄文のビーナス)

全体像は下方に重心がある安定した立像形で、全長は27センチ、重量は2.14キロあります。顔はハート形のお面を被ったような形をしています。切れ長のつり上がった目や、尖った鼻に針で刺したような小さな穴、小さなおちょぼ口などは、八ヶ岳山麓の縄文時代中期の土偶に特有の顔をもっています。腕は左右に広げられて手などは省略されています。また、胸は小さくつまみ出されたようにつけられているだけですが、その下に続くお腹とお尻は大きく張り出しており、妊娠した女性の様子をよく表しています。

190土偶(縄文の女神)

山形県舟形町西ノ前遺跡の出土品で、縄文時代の土偶造形の一つの到達点を示す優品として代表的な資料であり、学術的価値が極めて高いとされる

191土偶(仮面の女神)

「仮面の女神」の愛称をもつこの土偶は、茅野市湖東の中ッ原遺跡から出土した、全身がほぼ完存する大形土偶です。全長は34センチ、重量は2.7キロあります。顔に仮面をつけた姿を思わせる形であることから、一般に仮面土偶と呼ばれるタイプの土偶です。今から約4000年前の縄文時代後期前半に作られました。

192金銀錯狩猟文鏡_永青文庫

白銅質の鏡面と青銅製の鏡背から成る鏡。鏡背には、三つの怪獣渦文の間に禽・獣・狩猟の文様が象嵌されており、中でも、剣を手にした馬上の人物と虎の極めて写実的な表現から「狩猟文鏡」と名づけられた。河南省洛陽の金村古墳から出土。戦国時代に流行した、金属に模様を刻んで金・銀などをはめ込む技法(金銀錯)による鏡の最も優れた作例であり、世界的に「細川ミラー」の名で知られている。

193金彩鳥獣雲文銅盤_永青文庫

直径36.5cmの水器。中央の四葉文の周囲に虎や龍の文様がめぐっている。

194荒神谷遺跡出土品_出雲歴史博物館

本件は、島根県簸川郡斐川町神庭に所在する荒神谷遺跡から出土した青銅器の一括である。銅剣は三五八口を西側から三四口、一一一口、一二〇口、九三口の四列に分け、整然と刃を立てた状態で並べられていた。銅矛一六口は斜面に平行方向に刃を立てた状態で、かつそれぞれの切先と基部を交互にして埋置されていた。銅鐸は銅矛の西側に接し、三口ずつが鈕を向かい合わせるように二列にして、かつ鰭を立てた状態で埋置されていた

195加茂岩倉遺跡出土品_出雲歴史博物館

本件は、島根県加茂岩倉遺跡から一括出土した銅鐸39口である。銅鐸の型式は外縁付鈕1式が19口、外縁付鈕2式が9口、外縁付鈕2式〜扁平鈕1式が2口、扁平鈕2式が6口、扁平鈕2式〜突線鈕1式が3口である

196桜ケ丘遺跡出土品_神戸市立博物館

5号銅鐸B面は右上にトカゲまたはイモリと 2匹のトンボ、左上に工字状器具をもつ人物と魚、左下に魚をくわえた水鳥とスッポンまたはカメ、右下に脱穀する2人の人物がみえる。A面にも、カエル、カマキリ、クモまたはアメンボウ、カエルをくわえた蛇とそれを追う人物、争っている 3人の人物、弓をもちシカを捕らえる人物が描かれている。こうした絵画をどう解釈するかについては諸説があるが、狩猟・漁労のいわば弱肉強食の世界から、農耕を主要な生産手段とする社会への転換をたたえる農耕讃歌だという説が有力である。なお、4個の絵画銅鐸は、同一工人または同一工人集団の手になったものである

197袈裟襷文銅鐸_東博

江戸時代に讃岐国(現在の香川県)で発見されたと伝える銅鐸。吊り下げるための鈕(ちゅう)と身からなり、身は上から下へしだいにひろがる扁平な円筒状である。浮き上がった線(突線)で鋸歯(きょし)文、連続渦巻文、綾杉文が表されているほか、身の表裏は斜格子文の帯でそれぞれ6区に分けられ、僧侶の袈裟襷の模様に似ていることから、この名がある。

200金銅透彫鞍金具_誉田八幡宮

嘉永元年(1848)8月、応神天皇陵陪塚丸山古墳から発掘されたもので、2具の鞍金具と、金銅轡鏡板、金銅花形辻金具、鹿角装刀残闕、鉄鏃、鎧等残闕などの一括品がある。金銅透彫鞍金具は竜の文様が唐草ふうに透彫りされており、それぞれの竜が中央に向かう形で連続して配列されて鞍橋の表面全体をおおっている。製法手法の精巧さ意匠の壮麗な点で古代美術工芸の面からも欠くことのできない貴重な資料である

201宮地嶽古墳出土品_福岡・宮地嶽神社

宮地嶽中腹の不動神社を祀る日本最大級の巨石古墳が発見されたのは、260年以上まえの事です。古墳からは、馬具、刀装具、緑に輝く瑠璃玉やガラス板など、およそ300点が発見され、どれも第一級のすばらしいものであり、そのうち十数点は国の指定物件として国宝に指定されています。

202崇福寺塔心礎納置品_滋賀・近江神宮

昭和13年(1938)崇福寺跡の調査において、三重塔跡の塔心礎に穿たれた小孔から発見された。四方に格狭間のある台を付けた金銅製の外箱、銀製の中箱、内側に瑠璃壺を安置するための受花をもつ金製の内箱と、その中に金の蓋をした高さ3.0cm、口径1.7cmの球形の瑠璃壺と三粒の舎利が納められていた。奈良時代の舎利の奉安状態が知られる貴重な遺品である。

203金銅小野毛人墓誌_京都・崇道神社

慶長18年(1613)に今の京都市左京区上高野で古い墓が掘られ、石室の中から1枚の「位牌」が見つけられた。これが小野毛人の墓誌であった

204金銅威奈大村骨蔵器_四天王寺

江戸時代の明和年間に発見されたもので、甕を伏せた下からこの骨蔵器が出土したと伝える。球形の容器で、蓋と身が半球形に分かれる特殊な形である

205山科西野山古墓出土品_京都大学総合博物館

西野山古墓は、8世紀後期から9世紀前期と見られ、大正8年に墓穴が見つかり、内部から、武人の墓にふさわしい純金の装飾を施した大刀や金銀の鏡、鉄の鏃(やじり)などの副葬品が出土。田村麻呂の墓と特定

206伝菅公遺品_道明寺天満宮

六種の遺物は中国唐から舶載したものと、本邦製作によるものとがあるが、いずれも中国、唐時代の様式を伝える遺例の少ないものである。これらは、菅原道真が薨じた後、氏寺である土師寺の住職であった姨覚寿尼に伝えた遺品といわれ、土師寺の後身である道明寺天満宮に伝えられた。牙笏は象牙製。頭部に丸みを付けた直頭の牙笏で、正倉院御物以外に類例がない。

青白磁円硯:中央がへこんだ円形の硯で、池を周囲に造り、二十本の脚を胴に付しているが、古くからその下部を欠失する。器地は純白に近い堅い磁質で、外周には白釉がかかっている

玳瑁装牙櫛:象牙製。蒲鉾型の駆使で、幅細長く、雄柱を太めに作る。峯および棟幅の部分両面に花文を表す

犀角柄刀子:柄は犀角で作られ、縁金具は銀製。柄頭にも銀装の飾金具を被せてあったとみられるが、現在はその留鋲のみを存する。鞘は亡失

銀装革帯:銅製鍍銀のホ具・鉈尾および巡方十五個を着装した革帯で、ホ具を止める三カ所の孔にも猪目形の飾り金具を付している

伯牙弾琴鏡:銅製八花形で、鈕は荷葉に乗る亀を表し、上部に雲、山、鳥を、下部に蓮池を描き、その間左右に鳳凰、竹林、人物などを図している。いわゆる伯牙弾琴の様を表した唐式鏡である

209金峯山経塚出土品_金峯山寺

元禄4年(1691)に金峯山経塚から出土し伝世したとされる。金銀鍍双鳥宝相華文経箱、金銅経箱2合、紺紙金字経残闕、経軸からなる。藤原道長経筒(国宝)と一連のもので、装飾性の高いこの期の経塚遺物中の代表作。(金銀鍍双鳥宝相華文経箱16.1×32.3×15.6p)

210鞍馬寺経塚出土品_鞍馬寺

花背別所経塚(はなせべっしょきょうづか)のある場所は鞍馬寺の門前からさらに山道をのぼり花背峠を越えた北側、標高(ひょうこう)700m付近の尾根筋(おねすじ)にあたります。ここに経塚がつくられたのは平安(へいあん)時代のおわり、12世紀中頃のことでした。

20170924 万葉文化館     20171004国宝展    20171004豊国神社