大航海時代 ポルトガル編

項      目 要                 点
1434 ギルカンネス、ボハドル岬到達。 この頃、航海はいわゆる「岸伝い航海」であり、近くに暗礁があること。砂丘の砂や寒流が流れている事で常に霧が発生している為に視界が悪いことから、ボハドル岬迄到達するのが限界であった。 
1441 トリスタン、カボブランコ到達。  
1443 アルキム湾到達  
1445 ディニズ ディアス、カボベルデ到達。 カボベルデ(緑の岬)は、アフリカ大陸の最西端。 緑あふれ、鳥獣栄え、食料を与えてくる場所と認識する。 これまで一般的に熱帯地方には住めないという概念を覆す。
1446 トリスタン、ガンビア川とシエラレオネ到達。   
1457 ディオゴ ゴメス、ニジェ−ル川遡上する。  
1460 エンリケ航海王子没。

ギネア海岸貿易が盛んになる。
この頃、アフォンソ5世国王、国内関係の問題処理で航海事業に手が廻らず、沈滞する。
1481 ジョアン2世即位。 貿易収入によりアフリカ探検が国家事業として再開される。
1484 ディオゴ カン、コンゴ川を遡りコンゴ王国に達する。 コンゴ川沿岸をポルトガル国王の名に於いて占領する。
1486 バルトロメ ディアス、喜望峰に達する。  
1497 バスコ ダ ガマ、インド航路発見。  
1498 ガマ、インドのカリカットへ到達。 香料の貿易港として栄え、そこはアラビア商人の独占であった。
1500 カブラル、カリカットへ出向く。 アラビア商人の陰謀により香料を中々満載できない事に業を煮やしたカブラルは、アラブ船の強硬捜査をした事から暴動となり、カブラルは町を砲撃する。
1502 ガマ、20隻の歓待を率いインドへ向かう。 インドで、略奪、放火、撃沈、殺戮などあらゆる残酷行為を行う。
1503 アフォンソ アルブケルケ、コチンにインド最初の要塞を築く。  
1505 エジプトのスルタン、ロ−マ教皇に対しポルトガルの残虐行為に対して抗議を行う。 ポルトガルのマヌエル国王は、これを「聖戦」であり、逆に対抗する姿勢(インド副王制度設定など)を見せる。最初にフランシスコ アルメイダが選ばれる。
1507 アルブケルケ、ペルシア湾一帯を攻撃する。  
1509 副王、アルメイダ、ヂウ、ダブ−ルの町を襲撃し、エジプト艦隊を総攻撃する。

ディオゴ ロペス デ セケイラ、マラッカ探索。
 
1510 アルブケルケ、ゴアを攻略。ポルトガル人の居留地を作り、ポルトガルの拠点とした。   
1511 アルブケルケ、マラッカ征服。

フランシスコ セラン、香料諸島の一つのテルナ−テ島に到着。
 

セラン、マガリャンスに手紙を送る。 マガリャンスこの手紙で香料諸島へは西廻りの方が近いと判断する。 (実は、セランは、自分の偉業を過大報告したい為に、距離をより長く報告した為に、マガリャンスは西廻りの方が近いと判断したのであった。 この手紙が、彼を西廻りで東洋へ行く大きなきっかけと。)なった。
1518 ロボ ソアレス ダルベルガリア総司令官に任命される。  
1519 マガリャンス、世界一周の航海に出る。  
1521 マガリャンス、フィリピンのセブ島で原住民に殺される。 彼が上陸したセブ島の支配者は、マクタン島を支配する事を希望していたので、それを知ったマガリャンスは、ヨ-ロッパの武器の素晴らしさをみせ、それでもって彼等を心服させようとし、50〜60名のスペイン人で支配しようとしたが、激しい抵抗にあい、毒矢を受け、最後は斬倒された。 首謀者とラプラプといった。
1522 アルテ デ メネデス総司令官に任命される。  
1524 バスコ ダ ガマインド副王に任命されるもインド到着3ヵ月後に没。  
1529 ヌンニョ ダ ク−ニャ総司令官に任命される。  
1542 ザビエル、インド到着。  
1543 ポルトガル人、種子島へ漂着し、鉄砲を伝える。 ポルトガルの資料では、1542年となっている。 
1549 ザビエル、鹿児島到着。キリスト教を伝える。  

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