大航海時代

[1]背景(大航海による海外進出の必要性)

  イベリア半島でのイスラム教徒に奪われた土地を再征服する運動、レコンキスタ、そして十字軍の遠征を通じて西洋諸国が分かった事は、イスラム諸国には東洋の品々、絹、香料、陶器が流入していた事。 そして、それらを入手するには、ベネチア、ジェノバの商人かスペインのイスラム人を通じてのみ入手できたと言う事である。当時、西欧諸国はオスマントルコの台頭により、東洋との道が遮断されていおり、とりわけ彼らにとっての必需品は香料であった。冷蔵庫のない時代、肉の保存には香料が欠かせないものであった。 それは金と同等の値をつけていた時期もあったと言われている位で、この事からも香料がいかに貴重品であった事が理解できる。

香料を始め、東洋の物産を入手する事が当時の西洋諸国にとっては必要な事ではあったが、 それ以外の必要性としては、当時、アフリカに「プレスタ−ジョン」という、キリスト教の国があると信じられており、その国との交流を求めていた事。 そして更に、マルコポ−ロが「東方見聞録」で紹介した「黄金の国ジパング」への探索もその中に含まれよう。


[2]地球の球体説

 イベリア半島に移住してきたイスラム教徒によって、ギリシアの諸学が半島にもたらされた。 そしてそれがトレドでラテン語に翻訳されるに従い、欧州にギリシアやアラビアの諸学が伝わった。 その中には、ピタゴラス学派による球体説もあった。 そして、ギリシア、ロ−マ、アラビア諸学の球体説をまとめたピエ−ル ダイイのイマゴ ムンディ「世界の姿」と呼ばれる書籍が発表され、これが大きな影響を与えるようになる。 とりわけ大きな影響を与えたのは:  

  @スペイン西海岸とインドの東海岸との間は、順風であれば、数日の内に渡れる事。
  Aアフリカにも像がいるので、インドとの距離は短い。

という説である。 更に、イタリアの地理学者トスカネリの影響も大きかった。 当初、ポルトガルとの交信に於いて彼は西航路でアジアへ行く事を進言していたが、 その頃ポルトガルは、アフリカを迂回し東洋を目指していた為にトスカネリの進言はポルトガルを動かすには至らなかった。 しかし、コロンブスがこのトスカネリの手紙を見て、彼との文通により、西回り航路で東洋へ行ける事をいよいよ確信するのである。

当時、海はその果ては滝の様になって流れ落ちるという所謂地球平面説が通常の考え方であったが、その一方、この様に球体説も段々と一般化してきた時期であった。


[3]ポルトガルの航海史

 @エンリケ航海王子による国家事業
ポルトガルはイベリア半島のイスラム占領との戦争、所謂レコンキスタ(国土再征服運動)の過程に於いて形成された国であった。 

ジョアン1世の王子、エンリケはセウタ(アフリカ最北端)での戦いでアフリカに対して興味をもったと言われている。 彼はヨ-ロッパ大陸最南西端のサン ビセンテ岬の近くに天文観測、航海術等の研究の為に、造船所を備えた航海学校を設立し、大航海時代の幕開けの先頭に立った人物として知られており、「航海王子」とも呼ばれている。

ポルトガルは、エンリケ航海王子による国家事業として航海に必要な関連諸学を勧めていくのである。 エンリケ航海王子のアフリカ(→アフリカ地図参照)への強い執着からアフリカの探索を集中する事になる。 当時の航海術は、所謂、「岸伝い」であり、陸が見えない事を恐れてしまうとそれ以上進む事が出来なかった。 アフリカ大陸の限界地点はボハドル岬迄で、そこは、砂漠からの砂や寒流とぶつかる事から霧が発生し、視界が悪かった。 更に暗礁もあり、「暗い海」として恐れられていた。 そこを避けるためには、「岸伝い」の従来からの方法から離脱し、陸から遠く離れて行かなければならなかった。 エンリケ航海王子は20年間、この「暗い海」を突破できず、苦しむのであるが、ある失態によって王子の寵を失ったギル カンネスが、名誉挽回の為に1434年ボハドル岬を廻ることに成功し、それが恐怖の場所ではない事が判明したことにより突破口が開く事になる。 その後の年代と到達地点は
ポルトガル航海の歴史年表を参照。

 A航海歴(イスラムとの戦いと植民地政策)
後、1486年にバルトロメオ ディアスが喜望峰に達し、バスコ ダ ガマが、嵐の吹き荒れる難所の喜望峰を苦労の末廻り、インド洋に出てアフリカ東海岸沿いを探索するが、北へ向かうに従って、アラブ商人の妨害を受け、ようやくマリンディで水先案内人を得て、1498年にインド(→インド地図参照)のカリカットに着いた。

この頃、カリカットは、アラビア商人の独占であり、西欧への輸出はアラビア商人の独占でエジプト経由にて地中海へ運ばれた。 この地では、アラビア人居留地が出来ており、来住者は4千家族以上にも及んだ。 キリスト教国とイスラムのアラブ諸国とはこれまで激しく対立し、紛争が起きていたが、それは西方で行われてきたのであったが、バスコ ダ ガマがやってきた事により、東側の地でも対立の幕が切って落とされるのである。

ガマは、表面的にはカリカット王との平和な通商関係を結ぼうとしたのではあったが、「我々は、西洋最強の..........。五十隻の大艦隊の一部である云々。」と述べ、幾分の脅しを加えている。 カリカット王とガマの会見にて商館が設立される事になり、西洋人のインドに於ける貿易がここに始まるのである。 ポルトガル人はアラビア人よりも高く香料を買い、品質にもあまり問わなかった事からカリカット人は喜んだ。 しかし、アラブ商人にとっては天敵であるキリスト教国の進出やこれまで独占して行ってきた貿易が荒らされることを好むわけが無かった。 かくして彼等の陰謀が始まり、東洋圏に於いてもキリスト教とイスラム教との紛争が勃発するのである。

当初、王は、ポルトガル人に対し友好的ではあったが、後にガマは王から会見を求められ、ポルトガル人は海賊であると言う噂に対し弁明を求められた。 ガマはあくまでも目的は友好な貿易関係を結ぶ事であり、アラブ人はポルトガルの敵であり、彼等の陰謀に気をつけるように述べたが、その帰途捕らえられ、軟禁された。 結局ガマは、商館長を人質に残し、船に戻ったが、海上の土地の人間を捕らえ、人質と交換し、復讐を誓ってこの地を去った。 ガマはポルトガルに戻り、大歓迎を受けたが、この事件を契機にポルトガルは、宿敵アラブ人との闘いを想定し、艦隊を作る事となる。

1500年、ペドラルヴァレス カブラルを司令官とした艦隊は再びカリカットに姿を現し、香料の取引を行うも、商品が中々入ってこなかった事(アラブ人の陰謀と考えられる)に業を煮やしたカブラルは、アラブ商船を調べた事から騒動となり、アラブ人に煽動された民衆はポルトガル商館を攻撃し、商館長を殺してしまった。 これに激怒したカブラルは、カリカットの町を一日中砲撃し、荷を積みリスボンに帰った。

カブラルの帰国後、ポルトガルでは、インド航路継続について議論され、以下の理由により継続する事が決定がされた。
 @ヨーロッパの船、武器は優れているので、香料取引の為、拠点を築く事。
 Aアラブ人を追い出し、インドをキリスト教化する事。
この決定で、新たに20隻の艦隊が建造され、再びガマがこれを率いた。 この時、彼は、ゴアからカリカット迄、いたるところで見かけた船を捕らえ、略奪、放火、撃沈、殺戮といったありとあらゆる悪行を行った。 そしてガマの後に派遣されたアフォンソ デ アルブケルケに率いられた艦隊もアラビア人艦隊を撃沈した。

一方、これらポルトガル艦隊によって大きな打撃を受けたエジプトのスルタンは、ロ−マ教皇に対して、ポルトガルのマノエル王が、アラビア人に加えた傷害を非難し、教皇がインドへの航海を禁じないのであれば、スルタンも地中海に艦隊を送り、キリスト教徒に復讐すると言った。 そして、同時に艦隊の建造に取り掛かった。 これに対し、ポルトガル側は、「スルタンの脅しに対抗するには新しい十字軍を作る事だ。」とし、その対策として副王制度を作り、艦隊をインドに常駐させる事とした。 そして、最初の副王にフランシスコ デ アルメイダが選ばれた。 彼はアフリカ東海岸からインド沿岸の要所に城を築き、守備隊と大砲と残していく。 そして、抵抗勢力があれば、その町を焼き尽くすのである。 

しかし、いくら強力な船、武器を持っていようと絶対数は少ないポルトガルはインド西海岸に拠点を作ろうとも全てを完全に掌握できなかった。 あちこちで紛争が起こり、援助の為の味方の艦隊が来た為になんとか城を守ることが出来たりした。 従って、インド副王アルメイダは、弟のロレンソが、エジプト艦隊との闘いで戦死したこともあり、インド西岸の要所のみポルトガルの勢力を確立しようとしたが、本国の方針はあくまでも信仰の敵であるアラブ諸国を征服する事であり、その為に、再びアフォンソ デ アルブケルケが司令官となった艦隊がペルシア湾を荒らした。 アルブケルケはペルシア湾入り口のアラブ人の港町を攻撃し、破壊した。 しかし、破壊活動ばかりを行うアルブケルケに部下が反発し、また、ポルトガル艦隊の分散を嫌っていたアルメイダからも非難された事から、インドに向かって引き揚げた。

アルメイダは引き揚げてきたアルブケルケと合流し、ロレンソの仇をうつべくエジプト艦隊を総攻撃し、後に本国から帰国命令が来た為に、総指揮官の権利をアルブケルケに譲り、帰国途中にアフリカの原住民によって殺された。

アルブケルケが総司令官となった方針は、アラブ勢力を駆逐する事からインドの諸港を征服する事に変わった。 まず、カリカットを攻撃するも失敗に終わった。 しかし、後にアフリカからインドへの航路への立地条件としてゴアが最適との判断から、ゴアを総攻撃する。 一度は占領したものの、後にビヂャプ−ル王のアディル シャ−に率いられた軍隊攻められ、この時も敗走せざるを得なかった。

敗走したアルブケルケは、その後、到着した2つの艦隊にゴア攻撃の参加を要請したが、一部の了解を得たものの、フルナン デ マガリャンス(英語読みマゼラン)は、アルブケルケと衝突し、その後、スペインに出向き世界一周の旅に出るのである。 1510年11月アルブケルケは、それでも23隻からなる艦隊でゴアを再度攻撃し、寺院(モスク)や、アラブの女子供を含めアラブ系のものを全て殲滅した。 そして、頑丈な石の城を築き、ここをインドの拠点としたのであった。

インド諸王は、このポルトガルの勢力に圧倒され、友好の手を差し伸べてきた。 そして、エジプト司令官は勝利の望みを失い、インドから引き揚げてしまい、スルタンも艦隊を建造する事を辞めてしまった。 ゴアを占領した事でここにインドに於けるアラブ人との戦争は終止符を打つことになる。 アラブを駆逐し、ゴアを占領したアルブケルケにとって次なる目標は、香料取引の独占を狙って、マレ−シアのマラッカを占領する事であった。

マラッカへは、ゴア占領以前の1509年にディオゴ ロペス デ セケイラが5隻の船で遠征し、シナ人が友好的に迎えてくれたものの、アラブ人の陰謀により、ポルトガル人が襲撃されるという事件が起きていた。 アルブケルケは1511年に大艦隊を率い、マラッカに向かい、セケイラ達が襲われた際に捕まった捕虜の引渡しを要求したが、拒絶されたために、家と船を焼いた。 そして、セケイラが率いた艦隊に対する損害を与えた事に対する損害や城塞建設の承認を要求した。 しかし、スルタン側は、海上を決意した為に、市街戦が展開され、結局、ポルトガル側が勝利を収め、アルブケルケはここにモスク(アラブ寺院)や王宮の石を使い城を築いた。

マラッカ征服後、アルブケルケは2つの遠征をしている。 一つは、1513年の紅海遠征と、1515年のホルムズ遠征である。 (紅海遠征は失敗したが、ホルムズは占領した。) しかし、ポルトガル本国では、ゴア維持の為莫大なお金を使っている事と、インドや周辺国に於ける要職を彼の親族のみに与えている事実や、彼自身がインドの国王になろうとしているという中傷により、失脚されられる事になる。(中傷したのは、インドでの服役を通じて一攫千金を狙ったいた貴族が、身勝手な行動をしたが為に、厳格な総司令官から本国へ強制送還され、それらの貴族が中心になったという。)

この様に、アルブケルケは、ゴア、マラッカ、ホルムズを占領し、東洋に於ける重要地点をポルトガルの拠点とした事で本国にとっては大きな功績を残した。 そして彼の後を継いだ総司令官達は、結局、アルブケルケが築いた拠点を度重なる小競り合いから、拠点の運営維持のみに専念する事になる。

アルブケルケの後を引き継いだ、ロボ ソアレス ダルベルガリア、 ディオゴ ロペス デ セケイラ、 デュアルテ デ メネデス、 バスコ ダ ガマ等も大きな成果は上げる事は出来なかった。 原因は、服役でで成金になろうとたくらんでいた貴族が総督によって意を果たさず本国に送還され、その事腹いせに悪口を放つ事によって度重なる総督の交代となった事。 そして、ポルトガルは小国であり、人口も少なく、これまで占領してきた拠点の維持だけで精一杯であり、これ以上占領地を新しく獲得する事は不可能であった。

 B東洋へのキリスト教伝道
しかしながら、探検と貿易、そしてキリスト教の布教に関してこれで終止符を打ったわけではなかった。
東洋進出の目的は、香料を始めとする貿易と、新規に発見した国(勿論、彼らにとってであるが)にキリスト教を広めんが為であった。 その為に、ポルトガル政府は、イエズス会の神父を送るようになる。

当時は、宗教改革が行なわれた直後であり、宗教改革によって失ったロ−マカトリックの権威を取り戻すべくイグナシオ デ ロヨラが新しくイエズス会を設立した。 このイエズス会は、清貧、貞潔、服従等、中世の厳格な戒律を守り、十字軍的な精神で魂を救うまさにキリストの戦士であった。 
イエズス会が正式にロ−マ教皇に認められた1540年、ポルトガル国王、ジョアン3世は、インド総督のク−ニャがキリスト教の伝道に熱心でない事から彼を更迭し、ロ−マに宣教師を打診した所、新しい活気のあるイエズス会が選ばれた。この時に、インドの伝道の為に選ばれたのがフランシスコ ザビエルである。 

探検と貿易に関しては、アルブケルケがマラッカを攻略した1511年、香料の産地であるモルッカ諸島の一つ、テルタ−ナ島に到着した。 船長のフランシスコ セランは、この時友人のマガリャンス(マゼラン)に手紙を書くのであるが、あたかも大きな偉業を成したように、マラッカから香料島への距離を過大報告した。 その為に、マガリャンスは、香料の島は、*トルデシ-リャス条約によるポルトガルのテリトリ−よりも東側にあると計算し、西廻りでの航海の方が近いと判断した。

マガリャンスは、アルブケルケとゴア征服の計画時、彼と衝突し、更にはスペインのテリトリ−である西廻り航路の方が香料諸島が近いと考えたので、ポルトガルからスペインに出向き、スペイン政府に西廻り航路を辿って香料諸島へ行く事を提案し、スペイン政府の援助を得て、南米大陸からマゼラン海峡を通り、太平洋を渡って香料諸島に達した。 そして、ここでポルトガルとスペインが香料諸島の領有権をめぐり衝突するのである。

*トルデシ-リャス条約
 大航海時代が始まるにつれて、スペインとポルトガル両国の領土占有権について争ったために、
1994年にスペインカトリック両王とポルトガル、ジョアン2世との間で締結された条約。 
お互い自国に有利な主張をしたために、当時のロ−マ教皇、アレキサンデルが仲介し、
カボベルデ諸島西方100レグア(1レグア=約5.6Km)を境とし、その線より西をスペインの領土で、
ポルトガルの領土がその線から東とした地球を二分にした境界線を引いた。 
後に、ジョアン2世がこれを不服とし、カトリック両王と折衝し、境界線がカボベルデ諸島西方370レグアに
境界線がひかれた。これがトルデシ-リャス条約である。この境界線は、南米大陸東側を通り、
ブラジルがポルトガルの領土となったのは、この条約がいきさつとなっている。
しかし、当時のあいまいな地理知識において定められた境界線であったので、西廻りのスペインと
東回りのポルトガルが反対側の東洋ではちあわせになり、香料諸島(モルッカ諸島)の領有権をめぐって
衝突することになる。




[4]スペインの航海史


 @コロンブス
1451年、ジェノバの毛織職人の家に生まれた、イタリア人(スペイン人、ポルトガル人、ユダヤ系という説もある)。 ジェノバの有力商人であったチェントリオ−ネ家に雇われ、そこで、エ−ゲ海やイギリスに迄航海する。 チェントリネ−オ家に雇われていた時に、ポルトガル南西端、サン ビセンテ岬で海賊に襲われ、船が沈没した為に、陸まで板一枚で泳ぎ着き、ラゴスを経由して当時ジェノバ商人が居住区を設けていたリスボンに行き、ポルトガルに定住するようになる。 リスボンでは、さらにジェノバ商人達とアイスランドや西アフリカ迄航行し、航海者として知識を深めていった。

この頃、ポルトガルの航海探検は、赤道辺りの西アフリカ海岸迄で留まっていた。 当時ポルトガル国王、アフォンソ5世は、スペインの王位継承問題(1475〜1479)でスペインのイサベル女王と闘っていた為に、航海探検にまで力を注ぐ余裕はなかったのである。 コロンブスがリスボンに滞在していたのはまさにこの頃であり、この事は重要な意味を持つ。 つまり、王位がジョアン2世となり、西アフリカ探検が再開されたのは、1481年以降のことで、コロンブスがそのままリスボンに留まっていれば、バスコ ダ ガマやバルトロメオ ディアス等と一緒に航海していた可能性があり、大航海時代は、ポルトガルの独占となっていたかも知れぬ。

コロンブスがいつ西航路で東洋をめざすというプランを立てたのかは良く分からないが、恐らく、ポルトガル在住の時だと思われる。 彼は、マルコ ポ−ロの「東方見聞録」、ピエ−ル ダイイの「イマゴ ムンディ(世界の姿)」等、さまざまな書物を読み、東洋への航海を画策するが、彼を西廻り航路を取って東洋へ行く決心を決定付けたのは、トスカネリの手紙であろう。 当初、当時のポルトガル国王、アフォンソ5世は、東洋へ行くのには、アフリカを廻る東廻りが良いのか、それとも大西洋を横断して、西廻り航路を取った方がよいのかトスカネリに打診し、トスカネリは西廻りを推薦したという。この時、ポルトガルがどうして彼の助言を無視してアフリカ廻りに固執したのかは分からないが、エンリケ航海王子以降、伝統的にポルトガルはアフリカの探索に力を入れていた為。とされている。 実は、コロンブスはポルトガル政府に送られてきたトスカネリの手紙を見ており、彼と実際文通し、その際、トスカネリは、コロンブスに対して西廻りを取る彼の計画を賞賛したために、このトスカネリの手紙が西廻り航路を取る事の大きな判断材料になったと思われる。

彼の西廻り航路を取り東洋へ行くという計画は、しかしながら、専門委員会が設置され検討はされたものの、ポルトガルは賛同しなかった。 丁度、ジョアン2世が伝統?のアフリカ探検を再開した頃であり、財政的にも余裕が無かったのかもしれない。 ポルトガルに支援されなくなったコロンブスは、1485年にスペインに向かう。 


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