1.生涯の概説
本名はフランシスコ ジャッコア アスピルクエルタ イ エチェベリアという。
1506年ナバラ王国(スペインの一地方で当時小さい王国があった)生まれ。
父は大臣、兄二人、他姉二人の末っ子であった。

1525年19才でパリへ。パリ大学の聖バルバラ校入学。(現在ザビエルが学んだ校舎は
カルチェラタンにある。)
アリストテレスを専攻。24歳でその学校で哲学科の助教授となる。 運動神経が良かった。
27歳の時、イグナシオ デ ロヨラ(元、軍人でナバラ王国とスペイン関の戦争で右足に傷を
負い、生死彷徨う。ここから信仰を持つようになる。)が38歳で入学。ロヨラの主張
(人もし全世界を受くるとも、己が霊魂を失わば何の益かあらん。マテオ福音より)に肝銘を
受けたザビエルは段々とロヨラに心酔されて行くようになる。

当時、カルビンが唱えた宗教革命(カルビンも奇しくも同じ聖バルバラ出身。)で腐敗した
カトリックの内部が攻撃され、プロテスタントの台頭と伴に、カトリックとしてはプロテスタント
に対し失地を回復する必要性があった。
そんな折、モンマルトルの丘で1534年8月15日、7人の同士でイエズス会を設立、ザビエル
28歳の時であった。

ポルトガル国王ジョアン3世、インドへイエズス会の宣教師を派遣する旨、ローマ法皇に依頼。
ザビエルが任命されリスボンへ。

1541年、4月7日リスボン出航。5隻の内、3隻が嵐やイスラム教徒の妨害に
あい、沈没する程、赤道越えの航海は厳しいものであったが、説教、病人の看護、死者の葬儀等、
献身的に奉仕した。 1542年5月6日にインドのゴアに到着。そこはポルトガルのアジアの
拠点で、ザビエルは1年間で10万人の異教徒を改宗させたと言われている。
1545年、39才でマレーシアのマラッカへ到着。(モルッカ諸島の胡椒の拠点。
一回の航海でポルトガル人は3年間遊んで暮らすことができる程、儲けたと言われている。)
マラッカの丘の上の教会セントポール寺院で1547年鹿児島の根占出身ヤジローと出会う。
ザビエルとヤジローは1549年6月24日中国人のジャンク船に乗り込み、 
8/15鹿児島到着。 ザビエル43歳の時であり、イエズス会設立から15年目に当たる年で
あった。

当時の鹿児島の領主、島津貴久はポルトガル人ももたらした鉄砲に興味を持っていた為、福昌寺
での布教を許可する。

鹿児島に1年間滞在した後、1550年8月、平戸へ向かう。 そこで2ヶ月滞在し、百人を
洗礼した後、山口からその年の暮れに堺へ。
1551年京都へ。京都へ向かったのは、天皇を改宗させればカトリックの国になると考えたから
であった。

しかし、京都は応仁の乱が終わり、戦国時代の幕開けの頃で荒れ果てていた。100kmを2日で
裸足で歩き、御所を訪ねるが、見窄らしい格好と、貢ぎ物を持参していなかった事から、
門前払いされる。

そして山口へ戻る。大内氏が治めていた山口は、当時、明との勘合貿易で潤っており、西の京都
とも呼ばれ繁栄していた。
京都での門前払いされた経験から、日本人は身なりで人の判断すると考え、金の衣をまとい、
贈り物の持参し、大内義隆に会う。
義隆は布教の許可を許し、大道寺を住まいとして提供する。早速布教活動を開始するが、当然、
仏教の僧侶と対立した。 結局、500人を入信するに至るが、トルレス神父とフェルナンデス
修道士を残し、急いで大友宗麟の依頼で府内(大分)へ。

大友宗麟(キリシタン大名で有名)は当所、武器が欲しかった為、ポルトガル商人の尊敬を浴びて
いたザビエルを呼ぶ。その後、大分から1551年11/20マラッカへ旅立つ。
結局、2年3ヶ月の日本の滞在であった。

マラッカでロヨラからの手紙を受領。インド管区長に任命される。(つまり、アジア布教の最高
責任者に任命された。)
その後、中国へ渡るに当たり、マラッカ艦隊司令官でバスコダガマの息子であったアタイデの
横やりが入る。 彼は中国との密貿易を企んでいたので、ザビエルが行くと計画倒れとなる事を
恐れた。(中国は当時鎖国しており、密貿易の拠点だった。)
1552中国の上川島(サンシャン島)へ上陸。
中国大陸へ渡る為に中国のジャンク船を待っていたが、熱病にかかる。
しかし、アタイデの部下だったポルトガル人従者たちは無情にも帰ってしまい、最後に残ったのは
中国人の従者アントニオ独りだけであった。12月3日夜明け意識がもうろうとなり、何かを
つぶやきながら47歳で他界する。

遺体はマラッカで9ヶ月安置された後、インドのゴアに運ばれた。
その70年後、ローマ法皇から右腕を切り落とし鮮血が確認されれば功績をたたえ、聖人に列せ
られると伝えられた。早速、右腕を切り落とした所、鮮血が確認されたので1622年聖人になる。
以降、信者の崇拝を受けるようになる。
右腕は現在、ローマのジェス教会の祭壇に保管されている。


(注記)
本名について
*ザビエルはバスク語の「エチェベリア」が、いつしか 「チェベリア」となり、
 スペイン語では「ハビエル」、ポルトガル語で「シャビエル」、イタリア語で
「ザベリオ」と呼ばれる。

ザビエルの任命について
*ザビエルは当初、インド行きの宣教師のメンバーには選ばられていなかった。
 選ばれていた二人の内、一人が病気になった為に、その代理として派遣された。

ヤジローとは
*ザビエルを日本に来る決心をさせた鹿児島出身の人物。本名、池端弥次郎。
 (ザビエルは彼の名前を「アンジロー」と紹介しているが、どうも「Y」の
 発音が当時来ていたポルトガル人等には聞けとれなかったようだ。
 その証拠に「山口」を「アンマグチ」と紹介している。)
 殺人の罪で追われていたヤジローは山川港でポルトガルの商船に乗り込む。
 罪の意識に苛まれていたヤジローは船長アルバレスにマラッカへ行き、
 ザビエルに会って、救いを求める様、勧められる。
 丘の上の教会で結婚式の司祭をしていたザビエルと運命的な出会いをする。
 ザビエルはこの人物をポルトガル人の船長から、「黄色い肌をした、目の
 つり上がった異邦人」と紹介された。ザビエルは従者を持ち、ポルトガル語を
 話せたヤジローが教養のある事を悟り、是非日本に行って、布教しようと考えた。
 つまり、ヤジローがザビエルを日本に連れて来たと考えて良い。

仏教僧との対立
*当初、神、デウスの事を和訳では、「大日」と呼んだ。 
 然るに、キリスト教とは仏教の一宗派と考えられていた。 従って、仏教との
 対立はなかったが、ザビエルはそのことに気付き、後に、そのまま、「デウス」
 と表現を変えた。
 キリスト教が布教されて行くに従って、仏教僧との対立が高まり、仏教側では
 「デウス」の事を「デウソ」、「大ウソ」と中傷した。 また、信長の時代、
 信長の前で、宗教論争が行われた。 宣教師、ルイスフロイスと日乗上人とが
 互いの宗教論を唱えたのであるが、上人が逆上し、フロイスを斬り付けようと
 した事件があった。

大友宗麟
*府内(現在の大分)を支配していた大名。キリシタン大名として有名。洗礼名
 フランシスコ。当初はポルトガル人がもたらす貿易品(火薬の原料となる硝石等)
 に興味を示し、すぐにキリシタンになった訳ではない。後に熱心なキリシタンと
 なり、領地のある地域に「無鹿」(MUSICA、つまり音楽の意味)という名前を
 付けた程、キリスト教に熱中した。

 中国へ渡ろうとした理由
*ザビエルは、日本の言葉のみならず、宗教である仏教、儒教等、文化の多くが
 中国からもたらしたものであり、中国からの影響を大きく受けている事を悟った。
 従って、日本をキリスト教国にする為にはまず、中国をキリスト教国にするのが
 先決と考えた。




2)ザビエル、一考。。。
ここでは、先に述べた「生涯について」で不足している内容を私見を交え述べる。
「生涯について」はあくまでもザビエルの生い立ちについて簡単に述べたに過ぎない。
ザビエルとはどんな人間であったのであろうか? ここではザビエルにまつわる言い伝え
を紹介し、人間像について考えてみたい。


 (性格)
上に述べたように、神に仕える下僕として何ら悪意をもたず、清貧で身を粉にして働いたのは
事実のようである。 後で述べるが、日本語が出来ないにも拘らず、多くの日本人がキリシタンに
改宗した事は、ザビエルという人間に心うたれたからに違いない。 また、山口で幼少の頃に
ザビエルから洗礼を受けた老婆に、ある宣教師が会った所、「背の高い、温和な方」とその
思い出を語ったという。 これで大体のザビエル像が伺えると思う。

 (日本人感)
さて、ザビエルには日本人がどのように映ったのだろうか? 上述の通り、かなり日本人に
ついては良い評価を与えている。 但し、当時のヨーロッパ社会はキリスト教を信じない国は
野蛮であると偏見に満ちた考えがあったであろうし、また、新大陸の国々と比較検討した事も
事実であろう。 しかし、そのような偏見があったからこそ、日本を見て一種の驚きがあったと
思う。 つまり、このような東の端にすぐれた文化、習慣をもった国の存在の事すら考えて
いなかったのではないか。 ザビエルはインド管区長に任命され、アジア地域の責任者となった
のであるが、終生日本にこだわり続けたのは、日本、及び日本人を高く評価したからであり、
だからこそ、キリスト教国にしたかったのではないか、と考える。

 (日本語能力)
はっきりいって、ほとんど日本語はできなかったようだ。 別にザビエルは日本語の語学研修に
来た訳ではなかった。わずか2年3ヶ月の滞在では日常会話はともかく、福音を日本語で述べる事
などは誰が考えても不可能な事である。ましてや、辞書や参考書など存在してはいないのである。
 また、それらを裏付けるものとして以下紹介する。


 1)「今の所、私達は唖の様に同国の人々に向かっている。 私達は、彼等が私達の事を
  いろいろ語るの聞くが、言葉がわからないので、それに対して沈黙しているほかはない。」
 2)「フランシスコ ザビエルは、フェルナンデスが説教をしている間、その傍らに立って、
  説教の効果があるように、また聴衆に幸あれと祈っていた。」
 3)「ザビエル達は言語(日本語)の知識が乏しかった為、なんらこの地で成果を
  収められなかった。」
 4)「ザビエルとその同僚達は、鹿児島に於いて、言葉が通じなかったので、聴衆の
  質議に答える事ができず、嘲笑された。」


といった具合である。(1はザビエルが日本へ来て3ヶ月後に書いた手紙。2はフロイスが
フェルナンデス修道士から聞いた事をしるしたもの。3はヴィレラがザビエルより数年後
京都へ来た際に報じたもの。4は20年後に来た、巡察師バリニャーノが伝えたもの)

これらを考察すると、日本語で説教したとは考えられない。我々が2年とちょっとで外国語で
母国語を話す人と政治や経済についてどうどうと渡り合うのは困難である事を考えれば、
不自由なく日本語で説教したというのは、少し無理があろうと考える。

 (企画と戦略)
ここは、作者が一番述べたい箇所であり、日本布教をどのような手段で行おうと考えたか
伝える事で、如何にザビエルが、たぐい稀なる宣教師であったかを知って頂く事が目的である。
先に紹介したものは、ザビエルが西洋に知られていない未知の国に着いて、わずか3ヶ月経った
頃に出した手紙から伺える内容である。 まず、一つずつ考察して行く。
 1)「天皇にキリスト教を説き、日本中布教できるよう許可をもらう。」
  つまり、トップダウンの思想であり、上の人間がキリシタンになれば、全てが
  キリシタンになると考えた。 既に、日本の政治制度等は把握していた事が伺える。
  尚、日本滞在期間中、歴史上重要な役割を果たした商人、日比谷了珪、小西立佐
  (小西行長の父)、大友宗麟等、後に教会の柱となった人物に会っている事を
  考えてもザビエルの考えが良く判ると思う。
 2)「インドとの間に定期航路を開き、都に近い堺に貿易商館を開き。。。」
  如何に、清貧な宣教師とて、食って行かねばならない。つまり、ザビエルはここで
  経済状況について考えているのある。 日本全国を布教して行くには、又、その後、
  教会を建て、維持して行く事等、既にザビエルの頭には将来の構図が描かれていたに
  違いない。 そして場所を、京都に近い堺に有力商人がいたとしたというのも
  納得がいけるものである。
 3)「知識欲と好奇心に富んだ日本人を留学させ、キリスト教を知ってもらおう。。。」
  実際、ザビエルは2度に渡り、日本人を海外派遣している。一度は二人の仏教僧で
  ゴアの同僚に暖かく迎えるように依頼している。 この二人は二年後に日本に帰って
  いるが、詳細は不明である。 二度目は彼自身が日本を離れる際、五人の日本人を
  伴った。そのうちの一人は「ベルナルド」と呼ばれる鹿児島の青年(ヤジローの
  親戚であったという説がある)で、日本人として初めてヨーロッパへ行き、
  イエズス会の総長、イグナシオ デ ロヨラに会っている。 しかし、病弱で
  ポルトガルのコインブラで二度と故里の土を踏む事なく死亡した。(最近の調査で
  ベルナルドはコインブラの大聖堂に眠っている事が判明した。)
  我々はザビエルの後に日本にやって来た宣教師の中に全く反対の考えをした者が
  いる事も忘れてはならない。 つまり、日本人にポルトガル語を学ばせる事を
  禁じ、神社仏閣の破壊を指示したりした宣教師がいたという事である。これらの
  行動は「奢り」以外何物でもなく、日本人の反感を買ったのは言う迄もない。
  ザビエルは仏僧を敵対せずに、仏僧からも学ぼうとし、仏僧にキリスト教を
  知ってもらおうとしたのである。

以上を考慮すると、ザビエルは日本の当時の実情と日本人の性癖を的確に把握していた事は
言う迄もない。 誰からも親しまれた清貧さ。布教をしようという強い意志。いずれ建設するで
あろう教会の運営に必要となる資金の事を考慮し、それには貿易が適している事を見抜いた
経済感覚。 まさしくキリスト教布教のパイオニアとして稀なる宣教師であった事は言う迄も
ないであろう。


3)ザビエル、その他いろいろ。。。

ここでは、ザビエルにまつわるさまざまな言い伝え等について紹介する。

(ザビエルの日傘)
長崎26聖人記念館に保管されている。リス、の紋様が描かれている。絵がストーリー。
立派なもので日常に使われたものとは考えられない。長崎開港400年と記念する為にローマ
イエズス会より贈られた。直径127cm絹の布、漆塗りが施されている。
ザビエルが日本で使っていたものと伝えられていた。それはザビエルが府内の大友宗麟を
訪問した時に使われたと信じられていた。理由はザビエルの紋様である蟹と十字架が描かれており、
ザビエルとゆかりのある事を象徴しているからである。淵の部分には兵士が書かれており、
十字架が描かれている。鎧も日本独特のものから日本の兵士であり、キリスト教徒である事を
思わさせる。だが、周りの風景は異国である。中国、朝鮮と思わせる城、トラを狩る風景により、
秀吉による朝鮮出兵を描いたのもので、キリシタン大名にゆかりのあるものと考えられる。
作られた時期はザビエルが聖人になった1622年頃(つまり、蟹と十字架が描かれているので
聖人となってから以降)と推測される。場所はその頃はキリシタンが弾圧されていた頃であり
長崎であるとは考えられない。従って、東南アジアのイエズス会の拠点であったマカオが
推測される。絵を良く見ると鎧は日本独特のもので兵士は日本人である事が判るが、鎧自体、
ぎこちなくうまく書けていない。(従って、言い伝えで日本人以外の誰かが描いたのでは
ないか?)そして、漆も日本のものでないと言われている。つまり、

     *ザビエルが使用したものではない。
     *日本で作られたものではない。


描かれている大名が朝鮮出兵でキリスト教徒であったすれば、小西行長が有力である。

(ザビエルの紋様、蟹と十字架)
モルッカ諸島セラム島へ行く途中で海が荒れ、それを静める為に十字架を海にかざしたが、
海の中に落としてしまった。
ところが翌朝、浜を歩いていると蟹が十字架を運んできた。それ以降、蟹と十字架はザビエルの
シンボルとなる。



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