メキシコに「日本人の末裔か」と言われているヤキ族について。

その部族は現在のメキシコ社会に溶け込まず、孤立している。そのヤキ族には日本人の末裔
ではないかと言われている。 日本とメキシコの関係を紐解けば、スペインがフィリピンを
植民地として支配していた頃、当然そこには日本人も数多くいた。 その中には日本から
離れたい人もいたであろうし、世界を見たい人、そして、もちろん一獲千金を狙って海外へ
行こうと考えていた人もいたであろう。また、孤児となった子供が宣教師に連れられた者も
いたかも知れない(遠藤周作氏はあの名作”侍”の中で支倉常長一行がメキシコで一人の
日本人と会うが、その日本人が孤児で、宣教師にメキシコへ連れられたという設定である)。
従って、メキシコに渡った日本人がかなりの人数を数えてもおかしくはない。 
更に、支倉使節一行の中でも日本へ帰らず、そのままメキシコに残った者もいたと
いわれている。(支倉常長が帰国途中のマニラで息子、勘三郎に、共の3人がメキシコで
逃亡した旨の手紙を書いている。)

ヤキ族が日本人の末裔といわれている理由は:


*好戦的であるが、日本人には危害を加えない。
*ワラッシュとよばれる草鞋(ワラジ)に似た履物をはいている。
*”モリ”と言う苗字を名乗る人がいる。
*メキシコでは米を油を入れて煮るが、その部族は水だけ入れて煮る。

等である。


これらの言い伝えについては城山三郎氏が著書、”望郷のとき”の中で、作者自身が
メキシコ在住の日本人とのインタビューの中で記されている内容があるのでそれを引用する。

 (ヤキ族について)
*ノガーレスから600Km程南のオブレゴンに多い。 かつてはインディオや白人を殺したが、
 近年は政府から土地をもらい棉、麦等と作っているが、勤勉ではない。 
 日本人と事を構えないのは事実だが、それは棉作をしている日本人がよく酒をあげている
 からで、民族云々というより、即物的理由からである。
*何度も蜂起して人を殺した。それも、サボテンの上へ放り投げて焼き殺すという残忍な
 殺し方をしたが、日本人は一切殺さなかった。ヤキ族相手に商売していた日本人の
 おばあさんもいた。だが、日本人に似ているのはヤキ族よりもオアハカ附近の
 部族であり、日本人の子孫を名乗る者もいたようだが、根拠はないようだ。
 自分達に似ている日本人は優秀だというので、日系を名乗りたがるのではないかともいう。

 (ワラジについて)
*ヤキ族は裸足であったが、今はいつもワラジか他の履物を履いている。材料は革で、
 日本の草鞋をまねた事は考えられる。 但し、手本になった草鞋が支倉一行ものだったか、
 明治以降の日本移民のものだったか判らない。
*草鞋と形は似ているが、ヤキ族のそれは、親指と大二指の間に鼻緒を挟むということは
 しない。 日本風に指で鼻緒を挟むはきかたは、ヤキ族ではなく、サボラク族である。

 (モリについて)
*ノガーレスから400Kmの所にモリという村がある。オカダという地名もある。
 村の名前が土地の有力者から来ている事は珍しく無い。 モリが日本姓から由来する
 としても、支倉一行のものか、それ以前の漂着民のものか、明治以降の移民ものか
 知る由はない。
*ヤキ族の総大将。(インタビューをうけたのは日本人の歯科医でモリという総大将の歯を
 治療したという)


 (米の炊き方)
*一般にメキシコでは油を沸騰させておいて米を放り込み、さらに水をたっぷり入れて
 煮立てる。 ところが、侍の上陸地であるアカプルコ附近では、日本風に蒸し炊きに
 する部族がある。
 しかし、高地の多いメキシコでは、気圧が低くて蒸すような炊き方には不適であるのに
 対し、低地であるアカプルコでは、それが可能である。


以上のように、どうもこれらを裏付ける証拠はないようである。 歴史的事実というのは、
あくまでも事実を裏付ける資料がないと、駄目なのであって、推定で判断すべきではない
という事なのだ。 しかし、以上の事については、歴史的事実が証明されないといっても、
我々日本人の興味を引く事は事実であり、日本、或いは、日本の文化、習慣の影響をメキシコが
受けた事は何人も否定できないと思う。




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