ロ|マ支配以前 BC
15,000
アルタミラの壁画が描かれる。  
3,000 (新石器時代〜農耕、牧畜)
西アジア民族、ハム族の半島定住。
アフリカ経由にて半島へ渡ったハム族は、農耕、家畜飼育をもたらす。 ギリシア人から*イベリア人と呼ばれる。
 *黒海、カスピ海の南一帯に「イベリア」と呼ばれる地域があり、名称は
  ここがル−ツになっていると言う説がある。
2,000 巨石文化 地中海沿岸、バレアレス諸島に集中。民族詳細は不明。
1,900

1,600
青銅器文化 地中海方面から青銅器鋳造技術がもたらされる。
アルメリアのエル アルガ−ルを中心に繁栄する。
1,100 フェニキア人、交易の為にカディスを建設。  
900〜600 ケルト民族の半島侵入 *ケルト民族が先住民、イベリア人との混血を繰り返す。ケルトイベリア人の形成。スペイン人のル−ツとされる。
 *ケルト民族は、カザフ、キリギス平原を起源とされている。
700 タルテッソス国の繁栄 半島南西部に誕生し、銅をもとに、地中海民族と交易する。
600 ギリシア人、半島に彫刻、貨幣をもたらす。 この頃、*カルタゴ人が半島南部を中心に定住し、ギリシア人を駆逐し、タルテッソスを滅亡する。
 *フェニキア人の末裔とされる。
264〜241 第一次ポエニ戦争。 半島南部を拠点とする、カルタゴは、ギリシアを制服したロ−マと地中海の覇権をめぐって衝突するようになる。 ロ−マ側の勝利でシチリアがロ−マの支配となる。
227 カルタゴがカルタゴノバ(カルタヘ−ナ)を建設。 カルタゴの将、*ハミルカル バルカは、同時にバルセロナ(バルカ家の町という意味)も建設。
 *ハンニバルの父
218〜201 第二ポエニ戦争。 ハンニバルは、まず、ロ−マの同盟都市、サグントゥム(サグント)を攻撃し、激しい抵抗を受けるがこれを征服し、第二ポエニ戦争が勃発する。後、アルプス越えを敢行し、ロ−マ軍と戦う。 カンネ−の合戦等、輝かしい戦果をあげるも、スキピオ兄弟率いるロ−マに敗れる。
半島も、カルタゴノバが堕ち、支配はロ−マに移っていく。
ロ|マの支配 201 ロ−マによる支配始まる。  
133 ヌマンシア(現ソリア近郊)を攻略。 半島の抵抗は激しく、特にこのヌマンシアの戦いは人口8000人に対しロ-マ軍6万人でも中々攻略できず、「ロ−マの恥」と言われた。
27 アウグストス、半島を3つの州に分割。 
ロ−マ帝国の属州イスパニアとなる。
1)ベティカ    (州都:イタリカ、現セビリャ)
2)タラコネンシス(州都:コルドバ)
3)ルシタニア  (州都:メリダ)
19 ロ−マ、全半島を制圧。  
AD 98
スペイン出身トラヤヌス、ロ−マ皇帝となる。 半島のロ−マ化が進む。 経済、法律、行政、文化が半島へ導入される。 円形劇場、橋(コルドバ、メリダのロ−マ橋)、水道橋(セゴビア、メリダ)の建築が行われる。

キリスト教が、この頃、聖パウロによって伝えられる。

半島の住民がロ−マ市民権を得る。この事でケルト、イベリア族とロ−マ人の融合が広がる。
409 ゲルマン諸民族が半島に侵入。 リトアニア周辺に住んでいた*西ゴ−ト族が南下し、脆弱したロ−マに移動。
これにより、他のゲルマン民族が大移動する。
 *当初、ロ−マの傭兵であったが、しだいに力をつけ、ロ−マを東西
  二つに分割する。
西ゴ
|
ト時代
415 半島に西ゴ−ト族が侵入開始。  
507 フランク族に破れ、西ゴ−ト族は
半島に移る。
当初、西ゴ−ト王国として、ガリア(現フランス)のトロサ(現トゥ−ル−ズ)に首都を置くが、フランク族に破れ、半島に拠点を移す。 西ゴ−トの侵入によって、先に移住していたゲルマン系三民族は、
 @スエヴィ族  :ガリシア地方へ
 Aアラン族   :ポルトガルへ
 Bヴァンダル族:アンダルシアから北アフリカへ
それぞれ、移動する。
579 西ゴ−ト王国、トレドを首都に置く。 レオビヒルド王、*トレドを首都に置く。
 *名前はロ−マ人が名づけたトレトゥムに由来する。
589 第3回トレド宗教会議で西ゴ−ト王国が
ロ−マカトリックに改宗宣言。
西ゴ−トが半島を支配するも、イスパノロマ−ノが人数的には有利にあった為に、西ゴ−トを吸収するようになって行く。 西ゴ−トは、原始キリスト教と言われたアリウス派キリスト教であった。その為に、国王レオビヒルドは宗教統一を試みるも、イスパノロマ−ノからの*抵抗が激しかった。レオビヒルドの次男レカレドが王位を継承し、カトリックに改宗し、イスパノロマ−ノとの対立に終止符を打つ。
 *指揮をしたのは、国王の長男エルメネヒルドで、捕らえられ改宗を迫られるが
  拒否した為に処刑される。


もともと、西ゴ−ト王国は以下により政治的には不安定であった。
 @絶対君主的性格に欠け、世襲による王室財産を所有していなかった。
 A国王は選挙により決められ、大貴族と高位聖職者によって争われ、
   その二大勢力によって常に利害が衝突していた。
その為に、西ゴ−ト王国は長く続く事は無かった。
イスラム時代 711 タ−リク率いるイスラムが半島を征服し、
西ゴ−ト王国が滅亡する。
アラブ系ベルベル人を主力とする12,000人が半島に侵入。余りにも簡単に侵入した事から*伝説が残っている。
 *西ゴ−ト王ロドリゴは、セウタ総督フリアン伯爵の娘フロリンダを手篭めにした為に、
   これに激怒した伯爵は、セウタの城門を開け、イスラム教徒がジブラルタル海峡を
   容易く渡れるようにし、ロドリゴに復讐を果たした。


イスラム教徒は、半島北西部を除く地を占領し、「アル アンダルス」と呼び、首都をコルドバにおいた。アル アンダルスは、イスラム大帝国ダマスカスのカリフの下に置かれ、カリフは、「アミ−ル」と呼ばれる総督を派遣し、「アミ−ル」領となった。

半島では、少数民族であったイスラム教徒は、キリスト教徒に対し寛大に取り扱った。*「モサラベ」と呼ばれたキリスト教に固執する人に対しても、税金を払う事によって、信仰の自由や家屋の所有を認められた。 この事で大きな宗教対立を起こす事はなかった。
 *「モサラベ」に対し、イスラムに改宗した人を「ムラディ」と呼んだ。
722 コバドンガの戦いで、キリスト教徒が勝利。
アストゥリアス王国建設。
山岳地帯のアストゥリアスは、イスラムに占領されなかった為に、この地に難を逃れたキリスト教徒は、西ゴ−ト貴族の末裔のペラヨの指導のもと、コバドンガの戦いで始めてイスラムに勝利した。故に、コバドンガは、キリスト教徒のレコンキスタ(国土回復運動)の発祥の地とされている。
756 ダマスカスの亡命者アブドゥル ラフマ−ン
1世が後ウマイヤ王朝をコルドバに成立。
イスラム帝国ダマスカスでアッバ−ス革命が起こり、ウマイヤ朝が崩壊。アッバ−ス朝はバグダッドに首都を置き、東カリフ国と呼ばれた。

カリフの座を奪われたウマイヤ家の一人は、半島に難を逃れ、当時のアミ−ルを破り、自らアミ−ルを称し、バグダッドの中央主権的イスラム帝国への従属関係を絶って、アブドゥル ラフマ−ン1世として王朝を設立。 この王朝を後ウマイヤ朝と呼ばれる。
803 サンチァゴ デ コンポステ−ラで
聖ヤコブの遺体が発見される。
 
914 アストゥリアス王国、首都をレオンに遷都。
レオン王国設立。
  
929 アブドゥル ラフマ−ン3世、カリフを僭称。
イスラムスペイン全盛時代。
コルドバは、さまざまな学問の中心地となり、栄華を極めた。王国は海外からの商品取引により市場経済が大いに発達し、国家収入が潤った。

この時代のイスラム文化の最高傑作は、一度に25,000人が礼拝できたという「メスキ−タ」と呼ばれる大モスクであり、完成までに200年かかった。
1029 ナバラのサンチョ大王、レオン王国の内紛に乗じ、カスティ−リャを併合  
1031 コルドバの後ウマイヤ朝が崩壊。
分立群小割拠の時代へ。
 
1035 サンチョ大王の王子フェルナンド1世がカスティ-リャ国王となる。  
1037 カスティリャ王フェルナンド1世レオンを継承し、カスティリャとレオンが最初に統一される。 この頃から半島の小国が統合し、軍事力を高めていく。
1085 *アルフォンソ6世、分離していたカスティ−リャと
 レオンを再び併合する。
*トレド奪還。
イスラム支配下において栄えたアラビア語で書かれたギリシア諸学をラテン語に翻訳されていく。トレドはその中心地となり、「翻訳工房」と呼ばれた。
この頃、*エル シドが活躍する。

 *エル シド
本名、ロドリゴ ディアス。
カスティリャ、レオンはフェルナンド1世によって統合されたが、国王が分割して相続させた為に、再び分割される。しかし長男サンチョ2世が暗殺されたために次男アルフォンソ6世が再び両国を統合し王位に就く。 この時、王に兄の暗殺に無関係であると誓わせたのがエル シドである。以降、この事で国王とエル シドとの間に確執が生まれ国王に追放される。 彼は、熱心なキリスト教信者であり、家来にも優しく接し、モ−ロ人にも敬愛され、彼らからエル シド(アラビア語でわが主)と呼ばれた。 そしてバレンシアを占領し、バレンシア市民は、彼を王として迎えようとしたが、その王冠や貢物を彼を追放した国王アルフォンソ6世に賜ったために、その忠誠心、信仰心、寛容さ、家族に対する愛情の深さ故にスペイン騎士のシンボルとなる。 そして、宮殿でキリスト教徒、回教徒を問わず、全市民を公平に訴えを裁いた。「いつでも、誰でも宮殿で私を見つける事ができる。カリフの様に宴会と舞踏で日を過ごしていないからだ。」と言って。 彼の死40年後にスペインで最初の文学作品、ポエマ デ ミオ シド」(わが主の詩)が書かれた。これを下にチャ−ルトン ヘストン、ソフィア ロ−レン主演の映画「エルシド」が作られた。
1137 バルセロナ伯王ラモン ベレンゲル4世とアラゴン王女ペトロニ−ラとの結婚によりカタル−ニャとアラゴンの連合王国が誕生。 アラゴン王国は、後にバレンシア王国、イビサ、マジョルカ、シチリア、サルディニア、ナポリ王国を征服し、地中海貿易を中心として繁栄した。
1143 ポルトガル、カスティリャから独立。  
1212 ナバス デ トロサの戦い。キリスト教諸国連合軍が、ムワヒド軍を大破。 ハエン近郊の地でキリスト教諸国の勝利に終わり、以後南下が進む。
1230 フェルナンド3世、カスティリャ王国、レオン王国を最終的に統合。  
1232 ナスル朝の小王国建設。グラナダにアルハンブラ宮殿の造営始まる。  
1391 ユダヤ人虐殺が始まる。 王権の都市自治への政治介入が始まるにつれて王権と都市市民との間に摩擦が生まれ、その不満の捌け口として、ユダヤ人が迫害がはじまる。 さらに、ある聖職者の煽動的な説教により半島中に迫害が起きる。 ユダヤ人の中にはキリスト教に改宗したものもおり、彼らは「コンベルソ」と呼ばれた。(詳細は下記参照。)
1469 カスティリャ王女イサベルとアラゴン皇太子フェルナンドの結婚。  
1474 カスティリャ国王エンリケ4世没、イサベル1世が即位。 *イサベルとフェルナンドの結婚が、腹違いの兄でカスティリャ王のエンリケ4世の承認を得ていなかった為に、王位継承権がエンリケ4世の死後その娘ファナに移る。故に、イサベルとファナの間で王位継承権とめぐって争いが起きるも、イサベル側が勝利し、イサベル1世が即位。

 *イサベルの女王即位迄の道のり
イサベルのカスティリャ女王即位はすんなり決定された訳ではなかった。当初彼女の結婚相手は、フランス、ポルトガルそしてアラゴンの3国の国王或いは皇太子であったが、イサベルは丁度年が近い事(フェルナンドより1つ年上)や、同じイベリア半島の国であり、人種も同じなどの理由から、自らアラゴンとの婚姻を結ぶ事を希望した事や、アラゴン側も、100年戦争が終わったフランスの脅威があり、半島の一番の強国、カスティリャと繋がりを結びたいと言う希望があった為にアラゴン皇太子、フェルナンドとの結婚が決まった。(また、この婚姻には、ユダヤ人が絡んでいたという説もある。つまり、カスティリャに於けるユダヤ人は、フェルナンドの母がユダヤ系であるアラゴンと比較すれば不安定な立場あった為に、アラゴンと結べば立場が良くなるであろうと考え、アラゴンとの婚姻に一役買ったという。)
 更に、女王継承の敵、腹違いの兄の娘、ファナは、父王ファン2世の私生児、つまり、ファン2世の実の子ではなく、寵臣のベルトラン デ クエバの子であるとの噂があり、ベルトランの娘を意味するベルトラネ−ハという渾名を持っていたことからも、貴族内ではイサベルを推す声が大きかった。 結局、ファナは、修道院へ退き、継承戦争が終結する。
1479 フェルナンド2世、アラゴン王に即位。
アラゴンとカスティリャの統一。(スペイン王国の成立。)
ここで、イサベル1世とフェルナンド2世のカスティリャとアラゴンの連合王国による共同統治が始まる。

キリスト教に改宗したユダヤ人一掃を目的としてセビリヤにて最初の異端審問所が設立される。(1480年)









1492 *グラナダがスペインに制服され最後のイスラム国家、ナスル王朝滅びる。
*レコンキスタの終焉。
*ユダヤ人の追放。
*コロンブス、サンサルバドル島に到着。



下記”ユダヤ人の入植〜追放迄”を参照。
1494 ポルトガル、スペインの新規発見地の境界をトルデシ−ジャス条約により設定。 大西洋のカボベルデ島より西370レグアを境に西がスペイン領、東をポルトガル領とした。
1502 グラナダのイスラム教徒を国外追放 下記、”対イスラム政策”を参照。
1504 イサベル1世没 スペインの母であったカトリック女王イサベルは、レコンキスタ達成、新大陸を発見したコロンブスを支援するなど、大きな功績を上げた。 以降、スペインは黄金時代を築く事になる。
  [1]レコンキスタは、単なる民族の違いによりおこなわれたのか?

半島での、レコンキスタ(国土再征服運動)は、コバドンガの戦いから始まり、グラナダ王国の国王ボアブディルをアルハンブラ宮殿から追い出すまでおよそ800年も掛かった。 民族間の違いはあれ、片方の民族がもう一方の民族を支配しても、最終的には同一化したケ−スは(ギリシアとマケドニア、ガリアとフランク、アングロサクソンとノルマン等)全てではないにせよ多い事から、レコンキスタは特異なケ−スかもしれない。 そうすれば、単なる民族の違いによる争いだけではなく、他にもっと原因がある様に思える。

  1)宗教の違い
宗教の違いが、大きな原因として上げらる。 しかし、エル シドや、フェルナンド3世などは、支配下のイスラム教徒のモ−ロ人に対しては、寛容であった。 半島の人々は、他の宗教を認める事もしたが、その一方で自らの宗教を人生観や生活の中心としてきた。
その為に、他国の人間が自分達と同じ宗教を心底から持たぬ限り、同国民として認めず、逆にいかなる迫害に会おうともこれを捨てる事は無かっし、レオビヒルドのような迫害は逆に強い抵抗を引き起こした。
しかし、逆にエルメネヒルド、レカレド等同じ信仰を持つものなら、他民族の人物であろうと喜んで王として受け入れた。

  2)人生観の違い
 @女性感
半島の人は、さまざまな騎士道物語にあるように、マリアを始めとする全ての女性に畏敬の念を抱き、女性を守ることを使命とされていた。 が一方、王の奴隷としてハ−レムで悩む女性が沢山いたのである。
 A国王の定義
カトリックスペインは自由市民であり、君主に対して市民の権利を明記し、王に確認させた。 一方、カリフは、絶対的権力を備えた君主であり、カリフの前では権利の主張ができなかった。

このように、レコンキスタは、単なる民族間の相違による戦いではなかったと思われる。



  [2]三宗教の共存と追放について

  1)ユダヤ人の入植〜追放
11世紀半ば以降より、再征服してきた土地を守るため、ユダヤ人の入植が受け入れられた。 キリスト教徒の大半は農民と兵士であり、行政(財務、徴税)や商業の分野では、ユダヤ人が活躍した。 また、アラビア語の知識から通訳や外交官そして、トレドのアラビア語文献の翻訳事業に携わり、進んだ文化、技術の移入にも大きな役割を果たした。 更に、金融業を営み、王侯貴族に貸付を行った。 彼らは、特別な税金を払わせられたが、キリスト教徒と平等に扱われた。 キリスト教徒との間では、友好的な関係もあったし、権力者には、自分達にとって利用価値のあるものと判断し、寛容的ではあったが、13世紀以降、この関係も次の事から次第に影を潜めるようになる。

 @一般背景として、ユダヤ人をキリスト殺しの民としての敵視。
 Aユダヤ人が徴税請負や、高利貸しで民衆の怨嗟をかっていたこと。
 Bユダヤ人社会の間で格差が生じ、ユダヤ人同士の間でも暴動が起きたこと。
 C経済、政治、社会不安があると、民衆は、そのはけ口をユダヤ人に向けた。

@については、説明の必要はない。キリスト教徒にとっては、ユダヤ人は、キリストを殺した敵であるという、宗教上の敵対心。
Aは、できれば払いたくない税金がユダヤ人によって、徴収された事と、お金を貸して儲けるというのは、けしからん!という意識。
Bについては、支配者層に仕たり、商売で成功し裕福となった人等によって、同じユダヤ人社会に貧富の格差や利害関係が生じた為に、1346年にアラゴンでユダヤ人同士の暴動が生じた。 この事でキリスト教徒が@やAの理由ですでにユダヤ人を敵対視されていた事に対して更に拍車をかける事となってしまった。 また、Cは、経済不況、政治の不安定、そして当時ペスト(黒死病)が大流行するなどの社会不安に対するはけ口として、すべてユダヤ人が元凶と人々は考えた。 更にユダヤ人の受難は続く。 アンダルシアのある聖職者が反ユダヤ的煽動的説教により、セビリアで大規模なユダヤ人殺害が生じ、これがきっかけとなり、スペイン全土に暴動が広がった。

 当局側は、暴動を抑える為、ユダヤ人をキリスト教に改宗する様働きかけ、多くの改宗者がでた。これらの改宗者をコンベルソ、または、軽蔑の意味を込めてマラ−ノス(豚野郎)とも呼ばれた。 その為、コンベルソがこれまでに無縁であった分野、つまり、公職、聖職に就く事が可能となり、旧キリスト教徒との婚姻も可能となった。 しかし、彼等が社会で高い地位に立つ事で脅威と怒りをキリスト教徒が持つようになり、いくらキリスト教となったとしても表面だけではないかという猜疑の目をむけられるのである。 経済状況の悪化、政治的混乱時には人々は不満の捌け口としてコンベルソを迫害するようになる。
一方、支配者層は、有用なコンベルソを迫害される事は好ましくなく、暴動による治安の乱れも放置できなかったので、暴動の原因がコンベルソへの憎悪にあったにせよ、大義名分が信仰の浄化が旗印であったので、コンベルソの信仰を正すのが急務と考え、カトリック両王は、異端尋問所を1480年にセビリアに設置し、以降全土に設置され異端者の撲滅が図られた。

 しかし、コンベルソが真のキリスト教徒にならないのは、身近にユダヤ人が存在するからだとされ、ユダヤ人をコンベルソから切り離すためにアンダルシアからユダヤ人追放が命じられた。 そして数人のユダヤ人とコンベルソがキリスト教徒の子供を殺害し、その血を使ってユダヤ教の儀式を行った事から(いわゆる「ラ ガルディアの聖児事件」の事で、キリスト教徒自信がでっちあげたという憶測がある)ユダヤ人を危険な存在と人々は意識するようになり、ついに、1492年に全スペインからのユダヤ人追放が命じられることになる。


  2)異端尋問所の設立
ユダヤ人の改宗者(コンベルソ)が「隠れユダヤ教徒」ではないかという疑いから、その真意を確かめるためにイサベル女王が当時のロ−マ教皇、シスト4世に尋問所を設置する請願を行い、同教皇よりの勅書により1480年セビリヤに設置され、以降半島中に設置されるようになる。 この年は丁度、グラナダ王国壊滅の10年前のことであり、同国との戦争の為に莫大な資金が必要とされた時期である。

尋問は、密告等あらゆる手段を使ってコンベルソに対し証拠資料が集められ、、有罪が決定したコンベルソは逮捕され監禁される。 そして被告は監禁されるための費用を全て自ら負担しなければならなかった。 また、支払えないものに対しては財産が競売にかけられた。
つまり、コンベルソに対しては、いわれのないでっち上げの疑いをかけ、彼等が築いてきた財産を没収するという不当な行為を行った。 これは、異端尋問を行うと共に、彼等の財産を奪い、王室の財政を潤すという目的もあった。 また、裁判は非公開であり、罪状も被告にしらせなかった。改宗者が少しでもユダヤ教の作法を守っていると異端の証として裁判所に報告された。 そして、被告者になるとキリスト教の正しい信仰を行わなかった事を告白するまで拷問や尋問が続いた。 裁判所がその告白に納得しなければ極刑となり火刑及び財産没収となったし、納得すればするで死刑以外のなんらかの罰を受けた。 更に、死後においても追求が続く。 もし、ユダヤ教の慣習において埋葬されていれば遺骨を火刑にし、家族の財産が没収された。

半島に於けるユダヤ人改宗者の数は1480年頃には約25万人が改宗し、異端尋問所が機能した1480〜1486年には火刑は約2千人、改宗が2万人、そして国外移住が約22万人と言われている。

また、忘れてはならないのは、コンベルソがコンベルソを裁いたという事である。 スペイン全土の異端尋問所を統括する地位にいたトマス デ トルケマーダはコンベルソであった。 更に高い地位にいたコンベルソも他にたくさんいた。 コロンブスを支持し、ドミニコ会士で、セビリャの大司教となったデイエゴ デ デーサやフェルナンド国王の財務長官であり、コロンブスの航海に出費したルイス デ サンタンヘル、 同じくアラゴンの財政有力者、ガブリエル サンチェス、 アルフォンソ デ カバリェーリャ、そして、イサベルの財政顧問官イサク アブラバネル、 ファン カブレーロは正真正銘のユダヤ人であった。 また、その他に多くの学識者もいた。 詩人であるルイス デ レオンがその代表であろう。 そして、新大陸のインディオの人権擁護を訴え続けたバルトロメ デ ラス カサスもユダヤ系であった。

  3)対イスラム教徒政策
レコンキスタが進むにつれてイスラム教徒の抵抗が激しい場合には虐殺や追放の処置が取られたが、残留は認めれれていた。残留者(ムデハル)は、特殊な税金を課せれれたが、ほとんどキリスト教徒と同様に扱われた。 この処置は、ユダヤ人の時と同様に支配者層がそうすることが有益であると考えらからであった。 つまりムデハルは勤勉な農民であり、灌漑技術を始めとした職人であったからである。

ムデハルがキリスト教徒に危害を与えないように、接触などに制限しようとしたが、お互い友好的な交流も行われた。 また、ムデハルの間では15世紀頃にはアラビア語による命名法が消え、一夫一妻制となった。 しかし、スペイン最後のイスラム国家、グラナダ王国が征服され、多くのムデハルが新たに生じた。 当初、信仰の自由が認められるも、トレドの大司教シスネロスがグラナダでの改宗活動が進んでいない事に立腹し、アラビア語の教典を燃やした事から、ムデハルが反乱を起こすようになる。 この反乱は鎮圧されるが、この反乱をきっかけにカトリック両王は、1502年にムデハルに改宗か追放を迫り、殆どのムデハルが改宗を選択した。



 [3]共存の終わり

イスラム教徒やユダヤ人は表面上キリスト教徒を装ったが、ほとんどが自分達の宗教を持ち続けた者が多かった。 一般的には、イスラム教徒よりはユダヤ人に対する迫害が強く、それは、ユダヤ人が「キリストを殺した民」であるという宗教的敵意とキリスト教徒を圧迫する地位や職業に就いた事である。そしてスペインのキリスト教徒が生活苦などに対する不満の捌け口を彼らに向けたのであった。

異教徒達は、トレドの翻訳事業等文化面で大きな役割を果たした。 そして、対イスラムとの戦いであったレコンキスタは、ユダヤ人の贅沢な資金提供のお陰で、1492年にイスラム最後のグラナダ王国が崩壊し、レコンキスタが実現したのである。 そして、コロンブスの新大陸発見が実現したのもユダヤ人の資金提供なしでは達成できなかったし、 その後、黄金時代と呼ばれた大国スペインが生まれる事もなかったであろう。 しかし、レコンキスタが達成した時点で、対イスラムだけではなく、宗教的意識が表面化した。 そして、小国が統合し、対イスラムという宗教的名分により団結したいくつかの民族の集まりであったスペインが、イスラムの駆逐を実現した時、スペインの団結を更に強固なものにするには、対イスラムだけではなくユダヤ人の追放をも含め、キリスト教という宗教の下での団結を強化していく以外方法はなかった。 イサベルもユダヤ人の追放は、スペインにとって不利になる事は理解していたであろう。 しかし、キリストの下で一致団結した国民を抑える事は、異教徒を追放するしか方法はなかったのである。 イサベルはスペインの統一等、素晴らしい手腕を発揮したが、ユダヤ人の追放は唯一の失敗ではなかったか。 その後、新大陸から持ち込まれた(略奪した)金銀、財宝は商業と金融の専門家のユダヤ人がいなかったために全て海外に流出したのである。 
少数派であるイスラム、ユダヤ人は、半島に大きく貢献したのでであったが、多数者であるキリスト教徒の利害に翻弄され、常に不安定な地位にたたされたのである。 この事は、いつの時代も、どこにおいても通ずる事である。
(参考文献)
*スペイン史概説:茨木晃 著 ザビエルハウス
*スペインの歴史:立石博高 他 著 昭和堂
*スペインの歴史:川成洋 著 河出書房新社
*大航海時代へのイベリア:飯塚一郎 著 中央公論社



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