慶長遣欧使節について

(はじめに)
伊達政宗が派遣したこの使節には謎が多い。その1はどのような理由、意図で政宗がこの使節を
派遣したのかである。戦国時代が終わり徳川家康の時代になりかけていた頃。キリスト教徒を
弾圧し始めていた時代背景の下、伊達政宗はスペイン国王、フェリーペ3世とローマ法皇(当時は
パウロ5世)に ”キリスト教を広めたいので宣教師を派遣して欲しい。”と使節を送る。
何故キリシタン禁制が唱えられていた時代に ”宣教師を派遣して欲しい”と使節を送ったのか。
これは完全に家康に対する反逆行為ではないであろうか。 にも拘らず宣教師を派遣して欲しいと
依頼したのは如何なる理由があったのか。 また、一人のスペイン人宣教師が持っていた野望と
カトリック宗派同士の醜い争いとは如何なるもであったか。 ここではこれらの謎について
個人的な意見も交えて述べたいと思う。


まず、これらの謎に迫る前に簡単に慶長遣欧使節の概要を最初に簡単にまとめてみる。 

[I]慶長遣欧使節概要
仙台藩伊達政宗が派遣した使節。 石巻市、月の浦を1613年10月28日に出航。
フランシスコ会所属スペイン人宣教師ルイスソテロを正史、支倉常長を副使とした一行184人。
スペイン船をまねたサンファンバウチスタ号500トンに乗り込み、ヌエバエスパーニャ
(メキシコ)をめざす。

月の浦を出発して3ヶ月後、アカプルコに到着、100日を掛けてメキシコを陸路横断、
ベラクルスからスペインめざして出発。1614年、10月25日、グアダルキビール川の川口、
サンルーカルに到着。184名の内、スペインに渡ったのは20数名だった。

当時のスペインは1588年、無敵艦隊がオランダとイギリスの連合軍に破れ没落の一途を
辿っていた頃であったが、それでもまだ外国に対して影響を与える程の国力はあった。

一行はグアダルキビール川を遡ったコリアデルリオ、(セビリアから南へ15キロ)に到着。
そこでセビリアへ入る前にここで4日間滞在。(更に、2年後ローマから戻ってからもここに
9ヶ月滞在している。)滞在場所は15世紀にできたサンファンバウチスタというフランシスコ会
の教会とされている。これは奇しくも支倉使節一行の船と同じ名前である。(フランシスコ会は
1209年、イタリア人フランチェスカが設立。清貧をモットーに戒律の厳しい会で、裸足に
サンダルが特徴的。)


セビリアではアルカーサル(現在の歴史博物館)が宿舎となった。(その後19世紀に立て
替えられている。当時のまま残っているのは大使の間、乙女のパティオ、イスラム様式の門だけ。)
一行はセビリアで大歓迎を受ける。それもソテロがセビリアの貴族出身であった事が大きな影響を
与えている。

ソテロはローマ教王も注目するような大きなイベントにしようと考えた。1614年11月25日
セビリアからマドリードへ向かう。しかしその頃、マドリードではこの使節の受け入れにどの様に
対応するか協議されていた。なぜならローマ法皇から日本への布教を認められているイエズス会
宣教師からスペイン政府に届いていたからである。その内容は使節は正式なものではなく、一大名
のものである事。そして日本では幕府はキリシタン禁止令を出し、厳しい弾圧が行われている事等
を伝えていた。


マドリードでは国王、フェリーペ3世に中々会えないでいた。 マドリード到着から約40日後の
1615年1月30日にやっと国王フェリーペ3世に会える事となった。1614年12月から
約1年、マドリードからローマまで支倉一行に同行したイタリアの歴史家アマチの報告書によると
支倉が作法通り国王に謁見した際、手に接吻をしようとしたが国王はその手を引っ込めたとある。
常長は政宗の口上を述べ、親書を差し出した。しかし、国王はなんの返答もしなかった。

そして常長は2月17日、サンフランシスコ修道院付属尼僧院(現、王立跣足女子修道院博物館)
で洗礼を受けた。洗礼名、ドンフェリーペフランシスコハセクラ。国王フェリーペ3世、
フランス王妃など高官、貴族が隣席した。

しかし、国王からなんら返答をもらえない事からローマ法皇にすがるしか他の方法はない。
そしてソテロは常長をカトリック教徒にした手柄から自ら日本に於ける司教の地位を獲得せんが
為にローマへ行く事を考えていた。 そして復活祭が終わった4月にようやくスペイン政府は
一行がローマへ行く許可を与え、宣教師を日本へ派遣する事を承認する。そして通商条約に
ついては日本のほとんどの人が通商を求め、オランダとの貿易を全面的に撤退する事を条件に
許可した。しかし常長が幾度もお願いした文書による返事はもらえなかった。
残っている手段はローマ法皇にお願いする事だけであった。

1615年10月15日バルセロナからスペイン政府が用意した船でローマへ出発した。
10月25日にローマ着。月の浦を発ってから既に2年を経過していた。アラチェリ修道院が
ローマでの宿舎となった。建物はイタリア革命で取り壊され当時の姿は残っていない。
10月29日にローマ入場の儀式が行なわれた。 百数十名からなる壮大なるパレードを行い、
沿道では使節一行を見る為に立錐の余地もなかった。

そして11月3日、法皇パウロ5世との公式謁見が行われた。アマチによると常長は法皇に
近付くと作法通り3度跪き、その足に接吻し、政宗の親書を読み上げた。しかし法皇は日本の
地方の大名が信仰の道にはまだ日が浅いのに布教に熱心で使節を送った事は結構な事である。
この上は一日も早く洗礼を受けられん事を望むと述べただけで宣教師の派遣と通商については
何ら述べなかった。

政治的にも大きな力をもつ法皇にスペイン政府の間を取ってもらおうと期待を抱いていたので
あったが聴いてもらえなかった。ローマ市は常長に公民権を与えるが, 常長が欲しかったのは
そのようなものではなく、ただ主君の使命を果たしたかっただけだった。

1616年1月フェリーペ3世に再び懇願する為にローマを発った。途中立ち寄ったジェノバで
病気になるが、そこでフェリーぺ3世の命令が届く。”マドリードへは来るに及ばず。セビリアへ
直行せよ。”と。
そして一行はローマからセビリアに戻り9ヶ月滞在する。場所はコリアデルリオ近くの
ヌエストラセニョーラデロレト修道院。1616年8月スペイン政府より帰国命令が出される。
結局13名が帰国するが, 常長は病気療養を理由にソテロと他の従者と共に残った。

1617年6月13日、スペイン政府は常長に強制退去を命じる。しかし返書をもらわないと
帰らないという常長の強い意志に負けた政府は一行がフィリピンに着いた時にソテロに渡すと
常長に伝えた。そしてソテロと常長はこれ以上この地に残る無意味さを悟り、帰国する決心を
する。この時日本を出て4年8ヶ月の年月が経っていた。

1618年8月10日フィリピンのマニラ着。そして1620年9月22日、7年振りに日本へ
帰国。しかし既に禁教令が布かれていたが、キリシタンであった常長は仙台に帰国した。

支倉常長の最後については、はっきりした事は分かっていない。 帰国2年後の1622年、
52歳で没するという説。そして1654年84歳で没したという説もある。(52歳で没するの
が定説となっている)支倉の菩提寺である仙台市光明寺に常長の墓があり、その隣にはソテロの
碑がある。しかしその他にも2箇所常長の墓と言われている場所がある。それは川崎町円福寺
(常長の所領であった川崎町に戻り生涯を終えこの寺に葬られたという説)、大郷町東成田の
山中にある墓(キリスト教を捨てる事ができなかった常長はこの山中に身を隠していたのでは?
という説)。このように3つの墓がある事から常長の最後は判らない。

マニラでフェリーペ3世の親書(それはただ、通商条約はおろか宣教師の派遣にも触れず
外交辞令を並べたものであった)を受け取ったといわれるソテロは既に鎖国と禁教令が出されて
いた1622年8月長崎で捕らえられ火炙りの刑に処せられてしまう。


[II]使節派遣の理由
政宗のローマ法王への親書では、「キリスト教を布教したいので、神父を派遣して欲しい。」
というのは、本心であったのか?と言う疑問が湧く。 もともと、信長、秀吉は政治の為に
キリスト教や宣教師を利用したのであり、キリスト教の信者になる意図などなかった。
政宗も恐らく外国からの教えなど意にも介さなかったであろう。しかし、キリスト教を広めたい
という。 そこにはどんな意図があったのだろうか?

使節派遣の理由としては、政宗がスペイン海軍の力を得て、家康を打ち、天下を取るため。
と言う説もあるようであるが、やはり、どう見てもこの説は無理があるようだ。

一方、家康としては、日本国中に生産する銀の精錬方法を知りたがっていた。 
(当時、西洋ではアマルガム法という水銀を使った効率の良い精錬方法が使われていた。 
実際、初めてのスペイン大使、ビスカイーノが家康と謁見した際、鉱山技師を派遣して欲しいと
依頼している。 当時の日本は、銀を豊富に産出し、貿易の取り引きとなったのは銀が中心で
あったが、精錬技術が乏しく、みすみす、かなりの銀を捨てている結果となっていた。)

そして、もうひとつ欲しかったものは、造船技術と航海術であった。 勿論、軍事を
考慮しての事である。
その為に、家康のお気に入りであった、英国人ウィリアム アダムス(三浦按針)に船を
作らせた(注)が、一隻はメキシコへ無事着く程の船が作る事ができたものの、もう一隻は沈没して
しまった。もっと良い船を作る為には、どうしてもスペイン人の造船技術が必要であったし、
スペイン人の航海術をもって、大平洋を渡る事が可能であった。

これらの欲求を満たすには、スペイン側に良い条件を与える必要があった。 
そこで、スペイン側として一番喜ぶであろう、”キリスト教を布教したいので、
宣教師を派遣してくれ”という、”えさ”を与える事とした。 しかしながら、徳川幕府としは、
既にキリスト教を禁止していた。 その為に、考えだされたのが、仙台藩、つまり、伊達政宗が
独自で交渉する事である。 そうすれば、幕府としては、後にスペイン側から非難を受けたと
しても、”仙台藩が勝手にやった事”という口実で逃げられる。

また、使節を送る前の半年間に2度、家康と政宗が会っており、この時に使節を送る計画
について話したのではないかと憶測される。


そして、もう一つ共謀説を裏付ける有力な史実は、スペイン人大工が中心となって仙台藩で
大平洋を航海できる船を造船していたが、その際に幕府の船奉行、向井将監の部下が船作りに
参加しており、 更に、メキシコ迄、同行しているのである。

(注)
ウイリアム アダムスが指揮をとって作った船は2隻で、1隻はサン ブエナ ベンツーラ号で、
フィリピンの総督であったビベロをメキシコへ送り届け、メキシコで売却された。
もう1隻は、サン セバスチャン号で、欠陥があり、航海者が未熟であった事と運悪く暴風雨に
遭い、難破してしまう。

 
これ迄に伝えられている説、及び、その理由については上に述べた通りである。
これらを考えると、やはり、幕府と政宗の共謀説の方がどうも有力のようである。

この使節が派遣されたのは、1613年であり、関ヶ原の戦いが終わり、時代はもう家康のものに
なりつつあった。このような時期に果たして、政宗は、あわよくば自分が天下を取ってやる。
という野望があったかと考えるのは、少し無理がある様に思う。
 
幕府が既にキリスト教を禁止しており、東北地方で、キリスト教を布教して欲しいので宣教師を
派遣して欲しい。という事が公になれば、家康に咎めを受けるのは必至であり、何らかの処分を
受ける事は明白である。 果たして、このような危険を省みず、独自で使節を送ったとは考え
にくい。 更に、日本を出発時には180名もの日本人が乗船していたにも拘らず、実際に
スペインへ渡ったのは、その内のわずか30名程度である事を考慮すると、メキシコへ渡った
事で、ある程度の任務を果たした人間が殆どであったと考えるのが自然であろう。 つまり、
大平洋を無事に渡った事で造船技術と航海術もある程度把握できた事で役割を果たした。 

また、乗船した日本人には多くの商人が参加したとされているが、確かに一獲千金を狙って危険を
冒して迄、乗船した商人もいたかも知れない。 しかし、幕府の任命を受けた造船、航海術を盗む
為に商人に化けていたとも考えられないか? 勿論、スペイン人にその事を悟れられない為の
考慮であった事は言う迄もない。 実際、その後、この使節によってメキシコとの貿易が盛んに
なったという歴史的事実はない。 もっとも、鎖国政策がその後取られたからかも知れないが。
ただ、残念ながらそれを裏付ける証拠となる書類は発見されていない。 だから、色々な推測、
解釈される訳で、それが故に歴史に対して興味がそそられる所以である。
また、後々の事を考慮して、権力者がこれらの証拠を残さないように努めるのは当然であろう。

更に、支倉常長とはどう言う人物であったかと考える必要があろう。もともと支倉は中級武士で
あり、伊達藩の重臣ではなかった。 なのに何故支倉が選ばれたか? 仮に伊達藩の単独説を
取るのであれば、交渉はまとめる必要があった。(メキシコとの通商により利益を得る為に。)
その為には、もっと上級武士が選ばれたはずである。 つまり、支倉達は”捨て石”として
利用されたに過ぎないのではないか。 常長の父は、不動産の略奪により伊達政宗により、
切腹させられている。 それによって、常長を使節代表とすれば、理由はどうであれ父の
汚名挽回の為に必死に働くであろう。と政宗は計算していたであろう。
伊達政宗にとっては、この使節は、どうでも良かったと思わせる証拠がある。 それは、ロ−マ法王宛に送った
親書である。 

金銀箔を撒き散らした華麗な和紙に記されたこの書状は、日本語とラテン語の二カ国語で書かれている実に
日本らしい立派なものであるが、 ここで、一つ大きなミスが生じた。 日付の”慶長”の”慶”が、
ラテン語で訳された文字と重なっているのである。 国の代表者?として親書を書き記したものが、文字と
文字が重なり合ってしまったことは、通常許されるものでは無いはず。 つまり、政宗はラテン語の訳文を
見なかった。 と言う事になりはしないか? このことは、この使節派遣の真意を悟った信徒である奥州
見分(現、水沢市)の領主、後藤寿庵の証言としてイエズス会神父、アンジェリスが伊達政宗が
ローマ法王あてに記した書状は、「政宗がソテロに勝手に書かせたもの。」と、言っている。


さらに、付け加えるべきことは、この使節一行は、スペイン到着してから、それ以後の旅費、滞在費を持って
いなかった。と言う事である。 これは一体どういうことか? 相手国から来てくれ。と、言われない限り、国を
代表として行くのであるから、行くほう側が負担するのは当たり前ではなかろうか? 結局、費用は
スペイン側が負担するのであるが、費用を持っていなかった事も考えると、やはり、政宗としては、一行が
海の藻屑と消えようが構わなかった。と、考えるのが自然である。

以下の通りまとめてみると;

  1. 造船からメキシコ迄の航海は、幕府の船奉行、向井将監の部下が参加していた事
  2. 支倉常長は、政宗の重臣ではなかった。
  3. メキシコへ渡ったのは180名いたが、スペインへ渡ったのはわずか30名程度であった。
  4. ローマ法王宛の親書のラテン語訳文は、政宗がチェックせず、ソテロに勝手に書かせた。
  5. 使節一行は、十分な旅費を持ち合わせていなかった。

以上を考慮すると、幕府もこの計画に一枚かんでいたと考えるのが自然であり、
この使節団は、幕府と仙台藩合作の海の藻屑として消え去ってもよい、”偽りの使節団”と
言って良いのではないだろうか。


[III]スペイン人宣教師の野望
ここでは、慶長使節のもう一人の主人公、フランシスコ会宣教師で、スペイン、セビリア出身の
ルイス ソテロについて述べる。

さて、上にフランシスコ会所属。。。と書くと、あれ?と思われるかも知れない。 何故ならば、
日本へのキリスト教布教は、ザビエルが日本へ来て以来、イエズス会の独占であった。 
バチカンでは、当初、日本への布教はイエズス会に限る。としていたが、その後、他の宗派にも
日本への布教が認められる様になった。 つまり、これ迄日本への布教をイエズス会が独占して
いたのであるが、他の宗派へ布教の許可が得られた事はイエズス会にとっては、面白くなかった
のは当然である。 ここで、同じキリスト教でも、異なった会同士間で、対立の構図が明らかに
なってくる。

1608年、フィリピン総督代理であったロドリゴ ビベロは、その任務を終えメキシコへ向かう
途中にその船が房総半島で座礁し、それが切っ掛けで秀忠、家康と会見したが、その時に通訳を
したのがフランシシコ会所属のソテロである。 ソテロは稀に見る語学の天才であったようだ。

ソテロは、フランシスコ会の繁栄と自らの立身出世(司教の座)を狙っていた。 そして、
伊達政宗の計画にその野望を賭けた。通訳、そして使節の代表の一人として、スペインに
凱旋帰国し、さらにロ−マ法王に謁見すれば、自分の将来は実に輝かしいものとなるだろう。と、
考えたのは疑いの余地もない。 ここで、幕府側とソテロの思惑が一致する。つまり、
自分たちにとって使節を派遣すると利益をもたらす!と、言うことで。。。

しかし、夢は叶うことはなかった。 スペイン本国、ローマも彼らが偽りの使節として認識して
いたし、費用を持っていなかったことにより、上辺では、歓迎されたものの、最終的には
厄介者として扱われた。

ソテロは結局、フィリピンで、支倉達と別れるが、自らの栄光を取ろうとした日本を忘れられず
キリスト教を禁じ、信徒を弾圧していた日本に侵入し、捕らえられ一生を終える。


[IV]イエズス会の横やり
イエズス会は、日本へのキリスト教のパイオニアとして来日したフランシスコ ザビエルの
所属していた会である。 過去にも、他の会が日本へ伝道に来ることを良く思っていなかった
イエズス会は、ローマに対し、「日本でキリスト教を布教するのは、イエズス会に限定して
欲しい。何故なら、この国の事情に最も通じているのがイエズス会であり、他の会が入って
くると混乱を来たす。」と訴えていた。 結局、ローマは他の会に対しても日本での活動を
認めることになるのであるが、イエズス会側としては、先駆者としてのプライドが許さ
なかったし、新参者に手柄を立てさせるのは好ましいことではなかった。
従って、フランシスコ会に属するソテロが華々しい凱旋帰国をすると言う事は、イエズス会に
とっては面白くないのは当然のことである。

先に述べたように、アンジェリス師が、「親書のラテン語訳はソテロに勝手に書かせたもの」
とローマに報告したが、これは1619年(支倉がフィリピンに帰ってきた頃である)の事であり、
これ以前に、この使節が嘘偽りのものであることをマドリッド、ローマにソテロや使節について
誹謗中傷を交えて書き送った。
更に、時代は家康の天下となっており、キリシタンを弾圧していることも、イエズス会からは
報告されていた。 それ故に、マドリッド、ローマ側も正式の使節では無い事は理解していた
であろう。

イエズス会としては、ある程度の誇張もあったであろうが、決して出鱈目ではない報告を必死に
書き送ったに違いない。


[V]まとめ
結局、この使節は何だったんだろう? 一言で言うならば、さまざまな政治の駆け引きと、
立身出世を願った一人の宣教師の欲とが合わさって派遣された偽りの使節であり、その中で
日欧それぞれの権力者が「狐と狸の化かし合い」を演じた。 と、言えるのではなかろうか。

幕府側としては、仙台での造船とメキシコ迄の航海で、目論みを達成した。 日本人が約180名
乗船していながらも、メキシコからスペインに渡ったのはわずか30名程度であった。 
この数字の差は、いったい何を物語っているのだろう。 

莫大な金と労力をかけ、化かし合いを演じながらも、せっかく盗んだと思われる
造船技術、航海術を、残念ながら、発揮できることは出来なかった。その後の鎖国によって。

しかし、哀れなるは支倉達であろう。
政宗の為、支倉家の為に必死で働いた。 7年にも及ぶ危険極まりない旅に耐え、
ただ、役目を果たす為に異国に赴き、更には、本心からかは知らないが、キリスト教の信者に迄
なった。
だが、最終的には、気づいていたであろう。 自分達は、いわゆる「捨石」である事を。
さぞかし、無念であったことは、簡単に察する事ができる。



               
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