天正少年使節
(1) 使節派遣に日本側は関係したのか?
この使節は、4人の少年(12〜14歳)を中心として構成され、スペイン国王とロ-マ法王に会い、
行く先々で熱狂的に迎えられた。
使節が派遣されたのは、1582年で、信長暗殺のあった、本能寺の変の4ヶ月前に出発している。
つまり、時代はまだ日本が天下統一される前である。 信長が着々と天下統一に向けて勢力を
伸ばしていた時期ではあるが、地方へはまだまだ手が届いてはいない。
本使節は、キリシタン大名である豊後(大分)の国王、大友宗麟の名代として伊東マンショ、
他3人(千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ)は、備前島原の有馬鎮貴(しげたか、
後の晴信)、備前大村の大村純忠の名代として派遣された。
しかし、欧州では、使節に関する書物が多く刊行(1585年に48種)されたにも関わらず、日本側の
資料は極端に少ない。 このような大掛かりな使節の欧州派遣は国家の一大イベントであるはずで
あり、莫大な費用と長い準備期間が必要とされる。 ならば、これらに関する資料が多くのこって
いなければならない。 なぜ、同使節に関する文献がほとんど残っていないのか?
大友関係の諸資料では、後の徳川時代にキリスト教関係についての記述は抹消されたと
考えられるが、大友宗麟がキリシタンとなった事等も記されており、天正使節に関するものだけが
消されたとは考えづらい。 また、大村関係では、少しだけ関係する記述がのこっている。
それは、大村純忠時代にロ−マへ派遣された*千々石清左衛門は、後にキリスト教は邪法であり、
実は国を奪う謀であると述べ、大村喜前(よしあき、純忠の嗣子)は法華経に帰依し、キリスト教の
宣教師を追い払い、教会を焼却した。というものである。
*千々石(ちぢわ)清左衛門
千々石ミゲルのことで、彼は後にキリスト教を棄て、名を千々石清左衛門と改めた。
このように、日本側に資料が殆ど残っていないのであれば、この使節派遣を企画、立案したのは、
日本サイドではないということになりはしないか?
(2) どんな少年達だった?
(使節一覧)
名前 | タイトル | 年齢 | 出身地 | 身分 |
伊東マンショ | 正史 | 14 | 宮崎、都於郡 | 大友宗麟の名代 |
千々石ミゲル | 正史 | 13 | 長崎、千々石 | 有馬鎮貴、大村純忠の名代 |
中浦ジュリアン | 副使 | 14 | 長崎、中浦 | 同上 |
原マルチノ | 副使 | 12 | 長崎、波佐見 | 同上 |