天正少年使節


(1) 使節派遣に日本側は関係したのか?

この使節は、4人の少年(12〜14歳)を中心として構成され、スペイン国王とロ-マ法王に会い、
行く先々で熱狂的に迎えられた。

使節が派遣されたのは、1582年で、信長暗殺のあった、本能寺の変の4ヶ月前に出発している。
つまり、時代はまだ日本が天下統一される前である。 信長が着々と天下統一に向けて勢力を
伸ばしていた時期ではあるが、地方へはまだまだ手が届いてはいない。

本使節は、キリシタン大名である豊後(大分)の国王、大友宗麟の名代として伊東マンショ、
他3人(千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ)は、備前島原の有馬鎮貴(しげたか、
後の晴信)、備前大村の大村純忠の名代として派遣された。 

しかし、欧州では、使節に関する書物が多く刊行(1585年に48種)されたにも関わらず、日本側の
資料は極端に少ない。 このような大掛かりな使節の欧州派遣は国家の一大イベントであるはずで
あり、莫大な費用と長い準備期間が必要とされる。 ならば、これらに関する資料が多くのこって
いなければならない。 なぜ、同使節に関する文献がほとんど残っていないのか?

大友関係の諸資料では、後の徳川時代にキリスト教関係についての記述は抹消されたと
考えられるが、大友宗麟がキリシタンとなった事等も記されており、天正使節に関するものだけが
消されたとは考えづらい。 また、大村関係では、少しだけ関係する記述がのこっている。
それは、大村純忠時代にロ−マへ派遣された*千々石清左衛門は、後にキリスト教は邪法であり、
実は国を奪う謀であると述べ、大村喜前(よしあき、純忠の嗣子)は法華経に帰依し、キリスト教の
宣教師を追い払い、教会を焼却した。というものである。 

 *千々石(ちぢわ)清左衛門
  千々石ミゲルのことで、彼は後にキリスト教を棄て、名を千々石清左衛門と改めた。


このように、日本側に資料が殆ど残っていないのであれば、この使節派遣を企画、立案したのは、
日本サイドではないということになりはしないか?


(2) どんな少年達だった?

  (使節一覧)

名前 タイトル 年齢 出身地 身分
伊東マンショ 正史 14 宮崎、都於郡 大友宗麟の名代
千々石ミゲル 正史 13 長崎、千々石 有馬鎮貴、大村純忠の名代
中浦ジュリアン 副使 14 崎、中浦 同上
原マルチノ 副使 12 長崎、波佐見 同上
彼等は、いわゆる国王のプリンス的扱いで、行く先々で歓迎され、もてなされた。 それは、当時
世界で日の沈むことのない国といわれたスペインのフェリ−ペ2世やロ−マ法王にも会っている
ことから、その歓迎ぶりが理解できる。

しかし、いくら国が統一されていないと言ったって、一地方の大名の親戚(と言っても非常に薄い)
にしか過ぎない彼等が、どうしてこのような大掛かりな使節に選ばれ、行く先々で歓迎されたのか?

それは、あとで述べるとして、どのような少年であったか簡単に触れる。
まず、正史の伊東マンショであるが、触れ込みは、豊後国王の大友宗麟の名代として。であるが、
大友宗麟とどの様な関係があったか? 

簡潔に言えば、伊東マンショは、大友宗麟の「妹の娘の夫の妹の子」である。 マンショの父、
伊東修理亮は日向国の大名、伊東義祐の妹の夫であった人物であったが、薩摩の島津勢が
日向に攻め込み、その際、伊東家は豊後に逃げ込んだのであるが、その後、父修理亮は
亡くなり、母親にも去られたことから、孤児同然となってしまった。 その孤児がどういう運命を辿って、
大友宗麟の名代を勤める迄になったのか? いづれにせよ、大友宗麟には、遠い親戚に過ぎず、
欧州側に伝わった”プリンス”には程遠い少年であった。

一方もう一人の正使である千々石ミゲルは、有馬鎮貴の従兄弟である大村純忠の甥であるようだ。
純忠の兄弟で、ミゲルの父、直員(なおかず)は、千々石家の養子となり、千々石城の城主と
なったが、佐賀の龍造寺隆信に攻められ父と兄を亡くした。 彼の場合も、惨めな少年時代を
過ごしていた。

副使である原マルチノは、大村領である備前波佐見出身の原中務の子息であるらしいが、
もう一方の副使である中浦ジュリアンについては、全く明らかになっていない。 備前中浦は
西彼杵半島の北西部にある寒村であり、ジュリアンの父はこの地の領主であったらしいが、
詳細は不明である。

いづれにせよ、大名の力関係から、有馬、大村より力のあった大友宗麟の親族ということで、
伊東マンショが、そして、千々石ミゲルが大村純忠の甥であることから正使に選ばれたのであれば、
二人の副使は有馬、大村との親族関係が千々石ミゲルより薄いものであることは容易に想像できる。


(3)西洋人の驕りと誤りの布教方針

当時、日本の布教責任者は、ポルトガル人のカブラルであった。 この神父は、随分横柄であり、
日本、日本の文化を毛嫌いし、日本の社会に溶け込むことを拒否し、すべてにわたって自分(欧州人)
たちが勝っていると考えていた。 そして、自分たちの会話が聞き取られぬようにとポルトガル語の
学習を禁じた。このような人間が上にいれば、布教が進むわけがなく、日本人に反感をかうのは
当然のことであった。 事実、後述する、巡察師バリニャ−ノが大村純忠を訪問した際、「あなた方
宣教師は日本人に対して無礼であり、気も利かぬ。宣教師たちが日本人の美しい習慣や高尚な
態度を学ぼう努力しないのは全く無知なことだ。」と抗議されている。 また、在日宣教師たちが
日本の礼儀作法に通じていないことに軽蔑されていることに対し、「自分たちは異なった風習で
育ったのだから、日本の礼法を知らないのもやむを得ないと考えて欲しい。」と願った時に、
日本人は、次のように答えたという。「そのことについては同情するし、1年や2年なら我慢するが、
いく年も経っているのであるから我慢は出来ない。何故なら、あなた方が日本の風習や礼儀を
覚えないのは、それを覚えようとしないし、それがあなた方の気に入らないからである。それは
私たちに対する侮辱であり、道理にも反する。なぜなら、あなた方が日本にきて、その数も
少ない以上は、日本の風習に従うべきであり、私たちは日本の礼式をやめることはできないし、
あなた方の風習に従うべきでもない。或いはまた、あなた方が日本の風習を覚えないのが、
あなた方にその知力と能力が欠けているためであるならば、日本人はそれほど無能なあなた方の
教えを受けたり、あなた方を師とすべきものでもない。」と。 けだし、尤もな事である。
「郷に入れば、郷に従え。」である。 

しかし、日本に来た宣教師全てが、皆カブラルのように日本を毛嫌いし、馴染もうとしなかったのか
というと、そうではない。
近畿地区の責任者であった、イタリア人オルガンチ−ノは、日本の着物をまとい、食事も和食に
切り替え、仏教僧から法華経を習ったりし、日本に溶け込もうとした。そして、「宇留岸さま」と
呼ばれて親しまれた。 この様に、同じ宣教師の間でも全く対照的な考えがあった訳で、どちらに
布教の成果が上がったかのは言うまでもない。

ところで、宣教師を気に入らないといいながら、じゃあ、何故キリシタンになったのか?という、
疑問が湧くが、それは、ポルトガル船からも運ばれる輸入品による利益の為であり、領主は洗礼を
受けたとはいえ宗教的熱意からではなかった。(但し、大友宗麟や高山右近の様に熱心な教徒と
なった大名がいたことは確かであるが。。。) 事実、バリニャ−ノは、佐賀の龍造寺隆信に攻められ
危機寸前であった有馬領主、有馬鎮貴に莫大な軍事物資を提供し、その命を救い、彼をプロタジオ
という洗礼名を与え、鎮貴は領内の神社仏閣を破壊し、仏僧たちを追放した。 すなわち、宣教師は
貿易事業にも乗り出し、豊富な物資で、自分たちを保護してくれる領主を援助し、それを引き換えに
キリスト教を広めて行ったのである。

  (注)
 *語源はポルトガル語のpadre(パ−ドレ)で、 カトリックの神父、司祭を意味するが、日本で
  使われたバテレンとは、宣教師全般を意味する。



(4)巡察師、バリニャ−ノの方針転換と企て

巡察師とは、各国に派遣されている宣教師を訪ね、現状を視察し、現地の特有な諸問題について
適宣対策を講じ、決裁する権限を有し、その状況をイエズス会総長に報告する役を担っていた。 
その東インド地域の巡察師に任命されていたイタリア人アレッシャンドロ バリニャ−ノは、日本が
欧州の国と全てにおいて違っていることを理解し、上に述べた日本人からの抗議や不満を聞き、
また、日本が欧州と比較して全てにおいて正反対であるとし、カブラルの方針を180度変換した。 
つまり、

 @将来、日本の教会は日本人の聖職者によって運営されるべきとした。
 Aその為に、セミナリオという初等教育期間を有馬と安土に開設した。
 B九州特定区域以外で、日本人が食べない*獣肉を食する事を禁止した。

バリニャ−ノは一向に進まない日本の布教状況を憂い、以上の様な対策を講じた。 そして、将来は
日本人に教会を運営させる為に、日本人を欧州へ派遣し、豪華絢爛なキリスト教社会を見せ、
日本人に日本の文化、風習が如何に貧弱であることを認識させ、帰ったらその者から他の日本人に
語らせようとした。 それが、天正使節という形になってあらわれた。

  (注)
 *肉は、当時の日本人は食していなかった。 農業に用いた牛を重宝していたので、牛肉を食べる
  西洋人を非難していた。



(5)偽りの日本側の書状

大友、大村、有馬の各大名は、ポルトガル王(スペイン国王、フェリペ2世。当時ポルトガル国王も
兼ねていた)、ロ−マ法王宛に書状を送ったとされているが、偽りの書状と見られている。
ということは、日本側はなんら使節派遣について認知していなかったという事であろうか?

この使節派遣は、長い準備をかけて行われたのではない。 バリニャ−ノが日本巡察を終えて
彼が長崎から出発する直前に慌しく準備されたようだ。 資料には「巡察師は俄かに決意した。」
「遣使は突発的に決定された」等、伝えている。 このように慌しく決意したことから、問題が生じて
くる。

大友、大村、有馬諸侯が書いた、 ロ−マ法王、ポルトガル国王等宛の書状は、自らが
書いたものではないと推測されている。 大村、有馬はともかく、大友宗麟はこの使節の派遣に
ついては全く知らなかった。
つまり、この使節は日本の一大名をあたかも日本国王と称し、その日本国王の名代として派遣された
ものであるが、その日本国王の了解をも取らずに派遣したということである。 

偽りの書状だと証明出来るのは、現存する大友宗麟が記した枢機卿宛の書状に伊東マンショを
と記している点。 大友氏と日向の伊藤家は血縁関係にあったので、改姓して伊東としたのを
知らないはずがないと考えられること。 それとその書状に書かれて大友宗麟の花押であるが、
その花押は宗麟が過去に使っていた古いものであること。 
それに、大村純忠、有馬鎮貴も書状を出しているが、大友宗麟のものも含むこれら3諸侯の書状、
及び、使節一行が欧州滞在中に記した書状、感謝状全ての*筆跡が非常に似ている事から、
使節一行の誰かが、3諸侯の書状をも書いたのではないかと推測されることである。

結局、慌しく企画されたものであるから、事前に3諸侯に詳細な説明もなく、後で事後承認をとれば
いいやとでも考えたのか。それとも、承認なんかいらない。と、日本側を軽んじていたのかどうかは
判らないが、偽りの書状といい、大名を日本の国王のように言い並べるとは、現代ならば外交問題
までに発展するような事を平気でやったのである。

 
 (注)
 *有力な説としては、4少年一行に随行した、日本人修道士、ジョルジェ ロヨラ(日本名は不明)が
  書いたものではないかと推測されている。 本修道士は、日本語能力に優れ、少年達の日本語の先生の役割を
  果たしており、非常に達筆であったとされている。 しかしながら、残念な事に、マカオで日本への帰国が
  目の前に迫っていたにも拘らず亡くなってしまう。 



(6)危険極まる長い航海と訪問先々での大歓迎。

長崎を出向した使節一行は、ポルトガルの植民地(マカオ、マラッカ、ゴア、モサンビ−ク等)に
立ち寄り、難所の喜望峰を経由して実に2年半もかけてリスボンに到着する。 
当時は、4隻のうち2隻が無事に着けば良いと言われた時代であった。

帆船の悲しさもあり、風がないと全く前に進めない。 途中立ち寄った地点で風が無いためにその地
での長期滞在を余儀なくされる事もあったし、赤道直下の中で無風の状態のために船が一向に
進まない事もあった。
灼熱の太陽の下に晒され、積み込んであった野菜、果物、水は腐敗した。
16世紀の大航海時代に多大の犠牲者を出さしめたのはビタミンCの不足による壊血病であった。
更に荒れ狂う嵐による激しい船酔いも一行を苦しめた。 千々石ミゲル曰く、「五臓六腑が吐き
出されるのではないかと思われた。」と。 このような状態の下、一緒に乗船していた中にも
病人が続出し、死者も多く出た。 死者のミサは続き、水葬が執り行われた。 この様な情景を
見て、「明日はわが身かな。」と少年たちは考えたかどうか。。。

一向は、訪問先々で大歓迎を受けた。 エボラ、トレド、マドリッド、ロ−マ、ベネチア、ミラノ等。
時間の経過と共に、噂が噂を呼び、後の訪問先になるに従い歓迎振りは更に大きくなった。
スペイン、ポルトガル国王のフェリ-ペ2世、ロ-マ法王グレゴリオ13世が歓待したというので、
各諸侯が我を競うようにして歓迎した。 そして民衆も地の果てから来た王子を人目見ようと
殺到した。 割れんばかりの拍手、音楽、祝砲が出迎えた。

このようにして、一向は度重なる祝宴、儀式に招かれて豪華絢爛、華麗な宮殿を見たのであるが、
この使節の欧州訪問の企画者であるバリニャ−ノ(イエズス会本部からインドに残るように指令が
あったために、使節一行とはインドで別れた。)は、随員で一行の事実上の責任者であった
ポルトガル神父、ディエゴ デ メスキ−タに指示をしていた事があった。 それはヨ-ロッパの
良いところだけを見せて、醜い所は見せない様にと。 更に、一般の人々とは会話せぬようにとも
指示をしていた。 いわゆる、聖なるものだけを見せ、俗とは隔離すると言うことであり、この
バリニャ−ノの指示を考えると、彼の使節派遣の意図が垣間見えてくる。 「日本は欧州より劣って
いる事を彼らに悟らせて、帰国したら彼等自身の声でそれを日本国民に語らせてキリスト教信者を
増やす。」という事である。 しかしながら、当時のロ-マ教皇、*グレゴリオ13世は、イエズス会から
使節達に目立つこと無く、私的に引見されるよう依頼されたが、教皇は、逆にそれはイエズス会の
謙虚さと受け取り、教会の名誉が大事として大々的に公式に教皇に謁見する事とした。
そして、その事により、この珍しい地の果ての王子が来ている事が巷にまで広がってしまい、
いわゆる、俗(悪?)の面を彼らが見る機会が見てしまう機会が増えるのである。
使節一行が果たして俗の部分を見たかどうかは判らないが、航海中に立ち寄ったポルトガルの
植民地では黒人奴隷の売買が行われていたであろうし、日本の様に肥料として使っていなかった
糞尿を欧州の人々は習慣として上階から撒き散らしていた。 そのような情景を果たして彼等は
目撃したかどうか。

更に、王子とも言えない身分の使節が、王子と偽り、教皇やフェリ−ペ2世に謁見したとなれば、
事が重大になってくる。バリニャ−ノはそれも恐れ、なるべく内密になるようにと願っていたが、
この日本人使節が来ていることは欧州中に広がってしまい、本まで出版されるにまで至った。
やがて、彼の心配は的中する事となる。 後にイエズス会より遅れて日本にやってきた
**フランシスコ会の宣教師から使節の実態が明かされていく。 更に、イエズス会に属する宣教師
からも、いわゆる「内部告発」的な形で実態が暴露され、彼の心配は現実のものとなっていく。

  (注)
 *使節が会った際グレゴリオ13世は、高齢であって先の短い人生に最後の晴れ舞台として
  使節一行の謁見式を行ったようだ。 事実、謁見式が終わって数週間後に亡くなっている。
  臨終に際し、申された最後のお言葉は「日本の公子たちは、どうしているか。」であった。

 **1584年、フランシスコ会とアウグスチノ会のスペイン系宣教師が偶然平戸に着いた。平戸の領主、
   松浦家では、ポルトガル貿易を隣の大村家に独占されていた為に、スペイン人をして当時スペイン領
   であったフィリピンとの貿易をたくらんだ。 その前後に使節一行がスペイン、イタリアで大歓迎を
   受けたとの連絡が入る。 更に、グレゴリオ13世からは、日本の布教はイエズス会に独占させる
   主旨の勅令が届いたために、フランシスコ会等が反発した。 松浦家を通じて使節一行の素性を
   簡単に暴けたであろうし、情報を詳細に入手し、逐一、欧州へ報告し、「出るくいを打とうとした」のである。
   しかし、30年後に派遣された支倉使節一行は、その主役がフランシスコ会であった為に、今度は逆に
   イエズス会がフランシスコ会を非難した。



(7)「対話録」の作成とその意図について

往路と同様に、さまざまな困難な航海をして、無事帰国することになる。 実に8年振りの帰国と
なった。 出発時には13歳前後の中学生が20歳の青年になって帰ってきたのである。

途中、立ち寄ったインドのゴアでバリニャ−ノと再会し、途中、長期滞在を余儀なくされたマカオで
バリニャ−ノは、使節の滞在中の記録を「対話録」という形で残した。 しかし、この対話録という
ものは、実に”曲者”である。 なぜなら、彼らが帰国して、大村喜前の弟と有馬鎮貴の弟両名に
欧州の見聞を語り聞かせるという形を取っているが、実は、これは彼らがまだ帰国していないにも
拘らず、帰国途中のマカオでバリニャ−ノが使節一行の手記なりを参考にしたとはいえ、彼自身が
作ったものであるといえるからである。 「対話録」は言っている。

 @キリスト教を奉ずる貴族、大名の間では、王に仕える役職人として、自分の国王に謀叛をたくらみ
   またはあえてこの企てを助長し、これに協力をするような気風は全くないといってよい。
 A暴力なんてものに訴える余地はキリスト教を信ずる王侯の間には決して存在しない。
 B日本はあらゆる権利が、暴力や武力や君臨欲にかき乱されている。        
等。

実に、よくもまあ、でっち上げてくれたものだと関心するが、これこそが、バリニャ−ノの意図とした
ものである。
つまり、彼が目論んだ事とは、キリスト教の世界が如何にすばらしいもので、何事に
於いても他国を勝っており、日本はとても及ばないという事を日本人に知らしめ、これを布教拡大の
為の手段として使うことだった事は明白である。

また、実際使節自身が語っているかのような形式を用いることで、読む人間をして説得力を高め、
彼等の述べている事を容易に理解せしめようとしたのである。 しかし、果たして実際はどうであった
のであろうか?

当時のヨ-ロッパは、ルネッサンスの時期であり、豪華絢爛な宮殿などすばらしい芸術作品を生み
出した時代であった。 しかしながら、キリスト教社会に於いては「聖と俗」という、二つの相反する
側面が存在した。 つまり、聖なる教えを守り、行動する面がある一方では、神という名の下では
何をしても良いのであり、キリスト教を広めんが為には、異教徒を殺戮しても構わなかったのである。 
スペイン人を中心とした「コンキスタド−ル(征服者)」達は、中南米で原住民達をキリストの名の下に
殺戮し、財宝を強奪するなど極悪非道な事をやってのけたし、欧州の王侯貴族においても
裏切り、陰謀などさまざまな醜態を曝け出していたのであった。 
否、醜悪は世俗の人間だけではなかった。 マキャベリ曰く、「教皇アレキサンデル6世は、ただ、
人を騙す事しか考えず、それだけでやってきた人であるが、それでも尚、だます相手に不自由は
しなかった」と。

これら「俗界の醜悪さ」については、イタリアでは「聖なる偽り」として、片付けていた。
ここら辺りが我々日本人にとって実に理解しがたいことである。 果たして、我らが使節一行が実際に
この「聖なる偽り」なるものに出くわしたかどうかは判らないが、これだけ長く滞在していると、
なにがしら彼らの目にも「あれ、こんなはずじゃなかったのでは。」というような場面に直面しているので
はないかと考える。 (一行の一人、千々石ミゲルは、帰国後、唯一キリスト教を捨てた人物で、
法華経に改宗しているが、その原因の一つに俗の部分を見てしまったのかもしれない。)

しかし、「対話録」では、一切そのような事には触れられていない。 また、「対話録」にはあらゆる物に
関し、日本と欧州を比較した上で、欧州が全てにおいて勝っていると結論つけているが、使節一行は
九州の僻地で育った、いわゆる田舎者の”ガキ”であり、京都など当時の日本の中心地を見ずして、
果たして的確に欧州と日本の差を比較できたのであろうか?


(8)帰国

使節一行が8年間にも及ぶ長旅をしている間、遥か遠くの祖国では大きな変動があった。
キリスト教を保護してくれていた織田信長は既に亡くなっており、彼らの主君でもあった、大友宗麟、
大村純忠もこの世にはいなかった。 時代は秀吉のものになっており、一行が、ゴアに滞在中、
日本では、秀吉がある宣教師の軽はずみな言動により*キリシタン宣教師の国外追放を命じており、
使節一行にとって凱旋帰国という訳にはいかなくなってしまっていた。 波乱万丈、苦難の旅を
終えて来たというのに。

バリニャ−ノは、秀吉に謁見を依頼していたが、関白からは、宣教師としてではなく、インド副王使節と
して、入国許可を与えられる。 しかし、関白はバリニャ−ノは宣教師である事を知っていたはず
なのに、実にこれは、奇妙な事で意図は良くわからない。 一方、バリニャ−ノは、この謁見で、秀吉の
感情を和らげ、宣教師が日本に滞在できるよう画策していた。 そう、キリシタンの運命は、彼の
関白との謁見の成果如何にかかっていたのである。

 (注)
 *秀吉が、薩摩、島津家を討ち、九州制覇のために同地を遠征の際、博多湾で教会が保有している
  武装船を見つけ、その船に乗船した際、当時の九州地区、副管区長、コエリュが、自慢げに
  大砲を積んだ船を案内した。 その9日後に秀吉は、「バテレン追放令」を出す事になる。 
  武装する海外の聖職者に秀吉が危機感をもったのは無理もない事である。



(9)ペドロ ラモンの内部告発

関白との謁見に入る前に、前述した「内部告発」的要素を含む、使節一行の身分を曝け出し、使節の
実体を明らかにする文章があるので紹介する。

スペイン生まれのペドロ ラモンはイエズス会員となり、ポルトガルのコインブラで司祭に叙され、
1577年に長崎に赴き、臼杵にあった修練院の初代の院長としてバリニャ−ノより任じられた。
だが、秀吉のキリシタン追放令により、彼は平戸近くの生月島に潜伏中し、その間にその内部
告発文をイエズス会総長宛に極秘文章として記したのである。 (使節一行はその事、帰国途中の
インドのゴアにいた頃である。) その一部を簡潔に紹介すると、

 *使節の少年達は、日本にとって単に非常に哀れな者に過ぎないのに、御地(ヨ-ロッパ)では、
  日本の王公などと称して待遇されていることを聞くと、恥ずかしく顔を覆うほどである。
 *私はマンショと称する少年を良く知っており、大友宗麟の親戚のまた親戚に過ぎない。 日向の
  国は滅ぼされ、マンショの父は殺され、見捨てられたのを教会では、かわいそうに思い、私が
  大分にいた時彼を向かい入れた。
 *宗麟は私に向かって、「何のためにあの子供達をポルトガルにやるのか。」と申されたので、私は
  あちらへ日本人を見せるためだと答えた。
 *宗麟の心中には、使節を派遣するという考えは浮かばず、使節がロ-マ教皇やフェリ−ペ国王に
  奉呈したような書状をしたためたりしなかった事は確かである。
 *日本に達した報道によると、この少年たちを、あたかも王公や国王の使節として歓迎されたとの事。
  従って、日本人は次の二つのうちどちらかを考えている事を理解して欲しい。
   @日本でほとんど無視されている者に欧州では、非常な尊敬を払ったのは、我々(欧州人)が
     単純で無知である事。
   A或いはこの様な(過大な尊敬を払わなければならない)不当なことを、私どもが何故か伝達して
     しまった事。
    いづれにせよ、私どもが日本人にそのような事を考える機会を与えた事は遺憾である。
 *この事は、これまでは、イエズス会内部の事で済んだが、やがて他の修道会員が来る事が予想
  され、彼等を介し世に知られるようになるでしょう。
 *他の少年たち(ミゲル、ジュリアン、マルチノ)は、欧州ではごく低い身分の貴族、或いは、郷士にも
  相当する貧しい、当地でいう殿の子息で、幾分有馬、大村の殿の縁続きではあるが、遠い関係で
  ある。

この書状は、ラモン師が見るに見かねずに、イエズス会総長に極秘に知らせたもので、世間に
知らしめる目的で書いたものではない。 使節の素性を暴かれ、それが世間一般に暴露される事を
憂慮したものである。

この「極秘進展」の書状に書かれている内容は、マンショの身分についてはほぼ誤っていない事から、
信憑性は高いものとみなされている様だ。

そうすると、我々は、以下の事実を確信する。

 @使節少年は、大友、大村、有馬家の引く王子ではない事。 特に、マンショに至っては、遠い
   親戚にしか過ぎず、孤児同然で会った事。
 A大友宗麟は、直にロ−マ法王、フェリペ2世国王に書状を書かなかった事。


(10)関白秀吉との謁見

西暦1591年3月3日、聚楽第にてこの謁見は実現するのであるが、インド副王の代理として、
宣教師だと知りながらバリニャ−ノと謁見する事にした関白秀吉の意図は良くわからない。
一方、教会にとっては、この関白との謁見の結果に彼らの命運が掛かっていた。 
バリニャ−ノも、この事を良く理解していたので、豪勢な貢物を贈り、更に、「対話録」
で記した様な日本蔑視、欧州至上主義の根底を覆すような態度、言動を取る。 両手を畳につけて、
土下座する日本式の挨拶をし、関白が、「このたびの来訪を満足に思う。」と言った際の関白への
返答として、「殿下の偉大さ、その帝国の政庁の豪華さなど、それについては、インド、ヨ-ロッパに
伝わってはいたものの、現にこの目で見るに及び、今まではあまりにも寡少に評価しすぎていた事が
理解できた。」 と言ったという。

「対話録」に記したように、日本を軽蔑し、欧州が全てに渡って勝っているという事を教えられ、
洗脳されていた4人の少年は、この時、一体どう感じた事であろう。 欧州人としての誉れ高い
バリニャ−ノは果たして本心から言ったのであろうか? 恐らく、イエズス会と教会の将来の事を考え、
屈辱的ではあったが、耐える事にしたと考えるのが自然ではなかろうか。

一方、関白秀吉は、上機嫌であったようで、数日雨が降り続いていたので、一行に泥がかかっては
と配慮し、街路に大量の砂を撒かせ、清掃した。 

また、関白は伊東マンショが、日向の伊東家の出身である事を知っていたらしく、「予に仕えぬか。」
と言ったという。 それに対しマンショは「バテレン様に恩を蒙っているので、今、バテレン様の下を
去っては、恩義に反する。」と言って、仕官を断った。 秀吉は、「尤もな事だ。」と、理解を示した。 
また、使節一行に西洋楽器を演奏させて、3度も繰り返し聞いた。 そして、彼らが「日本人である事を
非常に嬉しい。」と言ったという。

この謁見が、功を奏したのか、暫くは、キリシタンに対しての弾圧はなく、宣教師達も安泰であった。 
しかし、その後、土佐の浦戸湾に座礁したスペイン船に乗っていたスペイン人乗組員の
*軽はずみな発言によって、秀吉はキリスト教徒を**処刑するに至った。

  (注)
 *1596年に起きた、いわゆるサン フェリ−ペ号事件のことで、積んでいた荷物を日本側に没収された事から、
   これに 怒った、スペイン人の乗り組み員は、「我々はまず、宣教師を送り、それから軍隊を送りその地を
   征服する。」と、発言した事から秀吉の逆鱗に触れたと言う。

 **サン フェリ−ペ号事件を発端に、秀吉が1597年、長崎西坂の丘で磔刑した日本26聖人のこと。



(11)その後の使節一行

関白秀吉との謁見の後、京都や奈良の神社、仏閣を暫く見学し、長崎へ戻った。 日本人の九州の
僻地出身の少年は京都、奈良の素晴らしい木造建築物を見てどう思ったであろうか? 建築物を
含め、全てに於いて欧州が勝っている。と洗脳されてきた彼等がどう感じたのか実に興味深く、
知りたいものである。 

九州キリシタン諸侯の大名との贈り物の授与式が催され、これで任務が完了した。 その後、使節の
少年は正式にイエズス会の一員となり、教会に仕えることになるが、バリニャ−ノが期待していたほど
ではなかった。 相変わらず厳しい財政状態で、海上の危険に常に冒されているマカオとの
「生糸貿易」に頼っているだけで、伊東マンショ等も問題解決にむけての貢献もなかった。 
バリニャ−ノは、キリシタンを迫害しつつあった日本を離れ、マカオでイエズス会聖職者養成の学院を
設置し、その後ゴアに戻ったが、そこで、「日本巡察師」を命じられたために、1598年に再度
長崎に着いた。 しかし、そこでは多くの難題が彼を待っていた。 ヨ−ロッパ人と日本人修道士の
対立、首脳バテレン間の日本人観の相違等に代表されるイエズス会の内紛の処理。 
そしてフランシスコ会などからの「名もない少年をプリンスと偽って、ヨ−ロッパへ派遣した事。」に
対する非難にも*対処しなければならなかった。

日本イエズス会内部では、バリニャ−ノの日本人司祭養成プランに猛反対していたが、それを自らの
権限で押し切り、マカオに司祭養成の為、17名の日本人修道士を送り込んだ。 その中には、
伊東マンショ、中浦ジュリアンがいた。 バリニャ−ノはその後、マカオに戻ったが、二度と日本の
土を踏む事はなく、その地で一生を終えた。

マカオに送られた伊東マンショと中浦ジュリアンは、約3年そこで過ごし、帰国後、原マルチノと共に、
司祭に叙されたが、もう一人の使節であった千々石ミゲルは既にキリスト教を棄て、大村喜前候に
召抱えられ、清左衛門と称し、妻を娶っていた。 聖職者として歩んでいた3人にとって、欧州往復の
長い期間辛苦をともにしたミゲルが、世俗の人間に戻ってしまったのは、さぞかし、辛かった事で
あろうと想像する。

伊東マンショは、司祭として4年間勤めたが、1612年、長崎のイエズス会学院で43歳にて病死する。
同じ年、徳川幕府は、幕府直轄領を手始めに次第にキリシタン弾圧を強めていく。 その二年後には
日本在住のキリシタンは全て国外追放となった。 長崎からマカオ、マニラに向けて出発した
南蛮船には、原マルチノが乗っていた。 彼は、60歳まで生き、マカオで一生を終える。

一方、既にキリスト教を棄ててしまった、千々石ミゲルであるが、どうしてキリスト教を棄ててしまった
のかは、それを裏付ける資料は乏しいようである。 しかし、簡単に想像がつく。

一つは、訪欧中に彼等が”俗の人”との交流があったと想像される事で、その”俗”の部分を彼等が
見てしまったと考えれれることである。 バリニャ−ノは、フェリ−ペ国王やロ−マ法王には内密な
形での謁見を依頼していたが、彼の心配をよそに国を挙げての大歓迎に至ってしまった。 そして、
俗の部分を見てしまった使節が、”口では良い事ばかり言っているが、事実は違う。”と、考えたとて
なんら不思議はない。 バリニャ−ノは、「”俗の人”とは直接話しをする事が無いように注意を払う事」
と言って、随行のイエズス会員に指示しをしていたのであったが、恐らく、長期滞在と大きな歓迎を
受けて”俗”との交わりを避ける事は、不可能になってしまったのであろう。

二つ目は、日本のイエズス会バテレンの間にあった欧州至上主義と日本蔑視の考え方である。
 ア)布教を許さないのであれば、長崎を要塞化し、スペイン海軍によって日本を征服しようといった
   イエズス会バテレンの**過激な考え方。 
 イ)日本人を***司祭にする事にかなりの反対があった事(つまり、外資系企業では日本人は
   出世の道を絶たれるということ)。 

三つ目は宗派の違いによる醜い争い。 (同じキリストの教えを広める目的であっても、イエズス会と
後にやってきたフランシスコ会やドメニコ会などとの間で誹謗、中傷をお互いに浴びせかけ醜い争いを
していた事。) 

これらを日本人の側から見れば、聖職者としてはあるまじき馬鹿げた行為と映ったのは当然の事で
あり、それらをつぶさに観察されれば、軽蔑を受ける事は当然の報いであろう。

以上の要素が絡み合って、ミゲルがキリスト教を棄ててしまったのではないかと考えられるのである。

さて、最後の中浦ジュリアンであるが、彼はキリスト教信者の追放にも拘らず、そのまま残り続けた。
彼は、家光の時代になって迫害がより残酷になったが、欧州で受けた聖職者達のご恩を忘れず、
布教を続ける事が恩返しになると考え、ますます闘志をみなぎらせ伝道を行った。
しかし、1632年、捕らえられ、翌年に逆さ吊りの拷問を受け、「棄教しろ!」という幕府側からの
説得にも応じず、2日間耐えに耐えた末、ついに殉教した。 刑場に出された際、彼が言った事は
「我こそは、ロ−マを見た、中浦ジュリアンだ。」であった。

  (注)
  *フランシスコ会は、この事を文章にして、フィリピン、メキシコ、スペインに流したが、真相を調査
   するには、長い危険な航海の片道に2, 3年もかかる日本は余りにも遠過ぎた。 そして、騙された人間にも、
   そのことで得る所があった為に結局、実際に真実を明らかにすることはなかったらしい。

   **バリニャ−ノは、当初からこの考え方は危険であるとし、反対していた。 が、このような考え方を
    していたバテレンが多くいたのは事実である。

   ***棄教したミゲルを除く使節の3人と、同行していたコンスタンチノ ドラ−ド(印刷技術取得に励み、
     教本出版に大いに貢献した。)は司祭に叙されているが、元より司祭にする事には強硬な反対があり、
     優秀な者であっても、司祭の道から遠ざけられた日本人がいたらしい。



(12)最後に

この使節派遣の目的は、前に述べたように、キリスト教を日本に広げんが為であった。
しかし、余りにも急ぎすぎた。 バリニャ−ノのゴアへの出発が間近に迫っていたからか、
否、布教の成果を直ぐに上げたかったからかもしれない。 その結果、一大名の遠縁に当たる
少年を「日本国王の王子」として、欧州中で大歓迎された事からその後、この一大壮挙を行った
イエズス会に反発したフランシスコ会に代表される他の宗派の反感を買い、真実を暴露されて行く。
(イエズス会に対する反感は「日本への布教はイエズス会に限定する。」という、ロ−マ教皇が
勅令を出した事は、フランシスコ会などはイエズス会の陰謀とみなしていた事から、以前より対立する
に至るまでの布石はあった。)
更に、余りにも事が欧州では大きくなり過ぎたゆえ、今後、他の宗派より真実が暴露されることを
懸念した為に、内部告発的な書状も出されるようになった。

しかし、これらは全て、日本でキリスト教を広げる為であり、キリスト教を布教するためには、
何をしても許されると考えていた欧州人にとって、これも、「聖なる偽り」として処理し、日本の
イエズス会を咎めなかったのであろうか? 日本までは片道2〜3年も掛かり、余りにも
遠すぎた為に、真実を明らかにする目的で調査団を派遣する迄には至らなかったのであり、
実際、ほぼ、不可能な事であった。 仮に、バリニャ−ノがこのようになる事も読んでいたのであれば、
かなりの策士であったと言える。 また、各諸侯、王侯貴族にも使節を受け入れた事で得るものが
あったという。 従って、真実は内々に処理されたのであろう。

しかしながら、イエズス会は余りにも横柄で過激すぎた。 日本に来た会員の欧州人は日本、そして
習慣など、全てに於いて毛嫌いし、 言葉を覚えようとせず、日本人に馴染もうとしなかった人間が
多すぎた(一部には、言葉を覚え、日本に慣れ親しんだ宣教師もいた事は確かであるが)。
更に、宣教師追放令がだされ、布教活動ができなくなると、日本をスペイン海軍でもって占領して
しまおうと考えた宣教師もいた。

キリシタンを迫害、弾圧するようになったのは、宣教師側の取った態度に由来するものであり、
秀吉や家康が日本を守るために国主として、当然の事をしたまでの話である。

外部の者がやってきて、受け入れられる為には、まずその地の言語を学び、慣習に親しむように
ならないと駄目なのは、世の鉄則である。 彼等は余りにも傲慢すぎた。 ”郷に入れば郷に従え”
という教えが、彼等にはなかったのであろうか?



 参考文献:
  *「天正遣欧使節」 松田毅一著。 朝文社
  *「日本史探訪11」 角川書店。



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