憐れなるかな、支倉常長。


  
(ここを読む前に、”歴史” → ”支倉常長と慶長使節” を先に一読頂いた方が理解しやすいです。)

支倉常長を思うと、このタイトルがピッタリと当てはまる。
なぜならば、慶長使節とは、嘘っぱちのものであり、当時の権力者にとってはどうでも良いものであり、
常長はその犠牲になったからである。。

支倉常長は、父が主君、伊達政宗に切腹させられた事で、お家断絶の危機にあった。
故に、一族の為に必死になっていた。

一方、政宗は、このことを十分に承知していたし、”偽りの使節”の一員として利用すれば、必死になって
働くであろうと計算していたに違いない。 否、逆に一家断絶のところを、この使命を果たせば、その罪を
許す。と ”脅し”の様な事を言ったのかもしれない。 そして、危険極まりない長旅に、海の藻屑として
消え去ろうが、異国で野垂れて死のうが一向にかまわなかった。 或いは、そうなるものと信じていたで
あろう。

必死に働いた。そして、全て役目を果たす為に、意に反しキリスト教徒になった。いや、主君の意図を
読み取り、自分達は捨て石として利用された事を悟り、ひどい仕打ちを受けた事に対する抵抗の意味で
キリスト教徒になったのかも知れない。

自分を犠牲にし、身を粉にして忠実に働いた。死と隣り合わせの状況が続きながらも必死に役目を
果たす為に一生懸命だった。 なのに、成果は上がらなかった。

失意の中での帰国となる。 7年間も日本から離れていた。家族の顔を見たい。日本食を食べたい。。。
しかし、その一方で、交渉が何ら成果が得られなかった事で何らかの責任を取らせられるのではないか?
一抹の不安が脳裏をよぎる。帰りたい一方で不安もある。 支倉は帰国の旅の間、ずっとこのような複雑な
心境であった事であろう。

政宗は、支倉一向が戻ってくることなど到底信じていなかったから、無事に仙台に帰って来た事を知って
驚いた。 いや、慌てたに違いない。 何故ならば、帰国後、約2ヶ月も経たないうちに直ぐにキリスト教
禁止令を公に出し、信徒を処刑さえしている。これは、一体何を意味しているか? 

一向が帰国したのは、1620年であり、この頃、徳川幕府はキリスト教を禁止、否、宣教師、教徒を
弾圧さえしていた頃であった。 ここにキリシタンの国、スペインから使節一行が帰ってきたとなれば、
幕府側から仙台藩へ圧力がかかったのは間違いなく、使節一行をどのように処置しようか悩んだはず
である。 偽りの使節とは言え、藩の為に一生懸命働いた者たちである。だが、幕府が厳しく禁じている
キリスト教の信者となったのであれば、これを罰しなければならない。
当然、一行に対して、キリスト教に帰依したのかどうかという尋問があったのは疑いの余地はない。

この尋問に対して、支倉一行はどう対処したのであろうか。
恐らくは、メキシコ、また、スペインでキリスト教徒になったことを正直に告白したと考える。各人、別々に
尋問を受けていれば、ボロがでるであろうし、当時まだ日本に潜伏していた宣教師から、支倉一行のことに
ついて伝わっていた可能性は十分あるからである。 

尋問を受けた側はどう弁明したであろう? 次の二つのことが考えられる。

 @「キリスト教徒になったが、それはあくまでも交渉を円滑に進めんが為にやむを得ずそうした。 
   今はもう、その教えは捨ててしまった。」 と、陳情した。
 A「キリスト教に帰依した。この教えはもう捨てる気はない。」といって、開き直った。

いつ、藻屑として消え去るとも判らない大海原を超え、遠い異国へ赴き、国力が衰えてきたとはいえ
日の沈むことのない国と言われたスペイン国王とロ−マ法王に会い、行く先々で貴族に歓迎され、
大勢の民衆の見守る中、華やかなパレ−ドを行ってきた。 そして、交渉が全てスム−ズに行うが為に、
マドリッドで華々しくキリスト教の洗礼を受けた。 

彼らにとっては、人生で最高の舞台であったに違いない。 一大名の中級武士に過ぎなかった侍が、
世界強国の国王に会い、行く所全てで大歓迎されたのである。 
「そうだ!俺たちは、マドリッド、ロ−マをみてきたんだ。 日本とは比較にならない程の強国に行き、
その国王たちに会ってきたんだ! 家康がなんた! 政宗がどうしたってんだ!」と、いう心情に
なったかどうかは知らない。 でも、そうなったとしても何ら不思議ではない。
事実、天正使節で派遣された少年、中浦ジュリアンは、逆づりの拷問を受けたとき、「私は、ロ−マを
見てきた中浦ジュリアンだ。」と言って、殉教した。 また、熱心なキリスト教徒の間ては、
イエス キリストの様に殉教することが一つの憧れの様になっており、教えを守りながら死んでいくのは
本望であったような風習が当時あったらしい。 それに使節一行の者も最終的には、この使節は、
偽りのものであり、自分たちは捨石のように使われたのだと言う事も悟っていたであろう。

これらを思うと、俺たちをこんな目に遭わせやがって!という、権力者に対する怒りと抵抗。 そして、
日本よりもずっと優れている国に行き、その国王と会ったという自負のようなものが、複雑に絡み合って
最終的には、使節一行の殆どが、キリスト教を捨てなかったものと察する。 つまり、上に挙げたAが
殆どであったのではないであろうか。 

さて、仮にAを選択したのであれば、一行はどうなったのか? 
伊達政宗は、帰国後、約2ヶ月後、慌てふためいたように、公にキリスト教禁止令を出し、
その日のうちに信徒を処刑さえしている。 
これは、幕府に対しその方針をきちんと仙台藩も守っていますよ。という意思表示と、支倉一行に対し
キリスト教徒のままでいると、君たちも、このようになりますよ。という、一種のデモンストレ−ションの
意味で禁止令、及び、信徒の処刑に迄至ったのでないかと思われる。

こうなった以上、覚悟は決めていたであろう。 帰国後、ひっきりなく取調べを受ける。
常長は、現在、仙台市博物館に所蔵されているロザリオ、十字架像など隠すことなく持ち帰った。 
中には、彼自身が十字架の前で手を合わせている彼自身の肖像画もある。 
これらは、自分がキリスト教の信者になったという証である。 (勉強不足で申し訳ないが、何故
これらの品が現存するのか判らない。というのも、幕府は、キリスト教を禁止してからは徹底的に
キリスト教に関する文書類、関係する品々を焼き尽くしてきたからである。 支倉家が秘密裏に
隠してきたのか、仙台藩が何らかの理由でこれらの品々を保管してきたのか?)

自らがキリシタンになった証拠を持ち帰った以上、言い逃れはできない。 上に述べたような主君に
裏切られたという、敵意と怒り。そして、強国の国王とロ−マ法王に会ったという自負から、
キリスト教を決して捨てることは無かった。

そして、どのような処分がなされたか。 磔獄門、打ち首という極刑に処されたのであろうか。 
否、常長の家族まで罪が及んでいないことから、恐らく、切腹になったのだろうと察する。
キリシタンは、凄惨な迄に処刑された。 なのに、支倉家取り潰しに迄至っていないことを考慮
すると、切腹させられたと考えるのが妥当とおもう。 これまでの苦労に対する報いの意味が
あったのだろうか? 「家族の安泰は保証するから、幕府の目もあり、すまんが、切腹してくれ。」
という事で一件落着したのではなかろうか。

実は、常長がキリスト教を捨てなかったと推測できる事実が一つある。 それは、常長の長男が
キリスト教の信者であった、或いは信者を匿ったかの理由で切腹させられているのである。
これは、常長が帰国後、信仰だけが慰めであって、仙台藩の政治なんぞ”クソ食らえ”と内心は
思っていたであろう。 それが、長男に伝わり、父の無念さを引き継いだのではなかろうか。

憐れなるかな、支倉常長。。。
いつの時代、どの様な世界にも力のある者の指示により、支倉常長のような”捨石”は存在する。




                         
HOME        NEXT