--- チリ旅行記 ---

(97/06/21〜97/06/28)

チリへ遊びに行こう!と決断したのは、元同僚のI君の提案からであった。
彼は、当時米国のテネシ−の子会社に出向しており、休みにアルゼンチンへ
行った事から南米に取り付かれたらしい。 いろいろ、ガイドブックを見て、チリが面白そうだ。
と、意見が一致。 早速計画に取り掛かる。

行くには、まずチケットの手配をしなければ。。。スペイン語の新聞、International Press紙
の広告で新宿にある代理店を発見。 サンチアゴ往復12万円! 安い!
早速、代理店へ出向き、チケットを購入する。
チケットもこれで手に入った。 後は、行くだけだ! ホテルの予約もしてないけど、
何とかなるやろ!


(出発当日)
会社を定時でバイバイし、一路成田空港へ。 しかし、台風の影響で雨風が強く、搭乗予定の
便に支障がないか心配だ。
が、問題なく時間通り出発する事が判り、ほっと一安心。
早速、アメリカン航空のダラスフォ−トワ−ス行きの飛行機に乗り込む。 約11時間のフライト。
乗客は、ほとんど日本人。 皆さん、何処へ行くのだろう? フライトは順調そのもの。
ほとんど一睡も出来ず、ダラスフォ−トワ−スへ到着。 アメリカの各地へ行く人々とはここで
バイバイ! Have a good journey! さて、我々中南米行きの乗客は専用の待合室へ移される。
数人の女の子のグル−プもいる。 リマ、サンパウロ、カンクン、サンチアゴ。。。。。
ここから又、それぞれの目的地へ飛び立って行く。 出発時刻となり、東京から一緒に来た
乗客が、一人、二人と消えていく。。。
若い女の子のグル−プは、やっぱり予想していた通り、かのリゾ−ト地、カンクン行きの飛行機
へとDisappear。 
一人取り残されて淋しさで一杯。 外は暑そう。 飛行機へ乗り込むブリッジからは、陽炎が
ものすごい勢いで上昇している。 (そうだ、ここはテキサス州。 暑いはずだ。 ケネディ−
大統領が暗殺されたのもダラスだったっけ。)
チリ行きの乗客が一人、二人と集まりだした。 でも、少なすぎる。 恐らく、乗り継ぎ客を
乗せた便がつくと、どっと押しかけてくるだろう。 I君もナッシュビルからの便で来る予定だ。

さて、搭乗の準備も整い、いざサンチアゴへ。でも乗客が少ない。乗り継ぎ便がまだ到着して
いないようだ。 そうこうしていると乗客がどっと押し寄せてきた。 ほぼ、満席の状態。
I君も無事乗ってきた。 一声、二声掛けあってそれぞれの席へ。 これからまた12時間も狭い
シ−トにじっとしてなければならないと思うと気が滅入ってしまう。
また、ほとんど眠れず、チリの首都サンチアゴのベニテス空港へ到着。
入国スタンプを押してもらいサンチアゴの地へ第一歩を記す。
出口を出ると、正面に乗合タクシ−のカウンタ−があり、若い受付の女性が
こちらを伺っている。(きっと、あの東洋人はここへ来るだろう。)とでも
思っているのか。意地悪をしたいが、他に交通手段もない。 取り敢えず、
ホテル予約していなかったから、ここからやってもらってそのホテルまで
つれっててもらうことにするか。 
訊いてみると予約をしてあげるというので、希望のランクいうと、
無事予約が取れ、案内されたタクシ−に乗り込む。
タクシ−といえば聞こえが良いが、古いバンタイプの車に乗せられた。
その後、きっと同じ方面へ行くのであろうか、他の乗客も数名乗ってきた。
運悪く外は雨。 南米の6月は、初秋の季節。 雨のせいか結構寒い。
舗装されていない道を(きっと近道なんだろう)進み、ゆらり揺られて
ホテルへ到着。
う〜ん。 これで4ツ星? 
なんか暗いし、お客もいないし、レセプションは狭くて部屋もくつろげる
雰囲気ではない。 まあ、いいか。 どうせ寝るだけなんだから。

眠い目をこすりながら、いざ市内へ散策に出発。
雨が降っているせいか、遠くが良く見えない。 確か、アンデスの高い山並が見えるはず
なんだが。
市内を流れるマポチョ川は氾濫しそうな勢いで流れている。
サンチアゴの町並みは完全にヨーロッパナイズされている感じで建物はすべて石作り。
ヨーロッパそのものだ。 アルマス広場一帯が中心街なので、その辺りへ行ってみる。
取りあえず、お昼御飯にしよう。 と、オープンカフェみたいな所で昼食を軽く取る。
なんか、犬に残飯を与える時に入れるような古びたアルミ製の入れ物にハムエッグが出て来て
見た目でまずそ〜。 まあ、お腹も膨らんだ事だし、気を取り直して観光を続けよう。
メイン道路、Higgins沿いには商店、デパート等、が集中している。 サンチアゴの目抜き通りだ。
だが、車に排気ガスを綺麗にする触媒コンバーターが着いていないせいか臭いがツンと鼻につく。
乗用車は未だ良いが、バスが真っ黒なガスを大量に吐き出し、悪臭を放つ。 これではアンデスの
雄大な山々もスモッグで被い塞がれるはずだ。 メキシコシティーもひどいものだが、それと
肩を並べる程のひどさ。 排気ガスの規制前の日本もこのように空気がよごれていたのだろうか?

国立歴史博物館;国の歴史をスペインの植民地時代から英雄達の肖像画、調度品などを展示し
紹介している。 古い貨幣も併せて展示されている。 しかし、どの人物が何をして、
どんな功績をあげた。と説明せれてもピンとこない。もう少し、チリの歴史を勉強してくるん
だった。

日も暮れて、夕食が近付いて来た。 長時間飛行機に揺られ、じっとしたままの時間を過ごし、
更に時差ぼけの為か食欲がない。 I君と相談し、日本食を食べる事にした。
日本食レストラン”JAPON”は、市内唯一の和食を提供してくれる店で、日本食まがいの物ではなく
正当の日本食を食べさせてくれる本格的なレストラン。 疲れている時には、やっぱり日本食を
食べるとほっとする。

翌日、ホテルで朝食。 じつに粗末なものだ。 パンもまずいし、なによりも気に入らなかった
のがコーヒーがインスタントだった事。 客もまばら。 I君と相談して、アタカマ砂漠から
帰って帰国前に予約していた一泊をキャンセルする事にした。


サンクリストバルの丘をケーブルカーで昇る。 サンチアゴ市が一望できて実に眺めが良い。
が、物凄いスモッグ(排気ガス)の為に、アンデスの中腹迄は見えるが、山頂迄は見えない。
丘の上には、高さ14mにもなる大きなマリア像があり、敬虔なクリスチャンは、十字をきって
いる。
時間の経過につれて、スモッグがきれ始めて来た。 両米大陸の最高峰アコンカグア
(標高6960m)が見え始めた。 実に雄大で山頂には雪を抱いてる。  
日本の最高峰は富士山の3776mだけど、それより3200m近くも高い。 雄大なわけだ。

美術館を訪問。 誰か有名な画家の特別展覧会をしているようだが、 判らない。 
それも含めて南米に有名な画家って誰だろう? これも勉強不足を嘆く。
ふと、I君を見ると現地の兄弟と思われる子供達に付きまとわれている。 
「なっ、何なんだよ〜。」「助けて。付きまとわれてるよ〜。」
「ハ、ハ、ハ。黄色いから珍しいんだよ。」
「な、何かいってるよ〜。わかんないよ!」
「やあ!」
「空手できるの?」
「できない。東洋人皆ができるわけではないんだよ。」
「どこからきたの?」
「日本から。」
「中国とは違うの?」
「日本と中国とは別の国。 一緒にしちゃだめ!」
「彼はスペイン語話さないの?」
「できない。」
「ばか〜。」人差し指を頭に押し付けながら。。。
「でも英語が話せる。君は英語話せるの?」
「話せない。」
「ばかはどっちだ。」と、言いそうになったが、辞めておいた。

I君の名誉の為に、英語が話せるといっておいた。
暫く話し込んで、一緒に美術館をでて記念撮影を
して別れた。
姉の方は名前をダニエラという。 弟の方は訊か
なかった。
まあ、しかし、「東洋人イコ−ル中国人」という
意識がかなりあり、不愉快極まりない。
これは、西洋でも同じ事で、少し教養に欠ける
人間は、中国が東洋の代表のような意識を
もっている傾向があるようだ。

目抜き通りで少しウインド−ショッピングをし、
北部アタカマ地方から戻ってから
買う事にしよう。 取りあえず買いたいものは
決めた。(今買ってしまうと荷物になるので)
翌日、ホテルのフロントでこれから行くサンペドロ デ アタカマで滞在するホテルを
電話予約してもらう。
幸いにも予約が取れた。 タクシ−で空港へ向かい、
一路飛行機にてカラマへ出発。 昼食時にサ−ビスされたチリワインを飲む。
濃厚な味で、実に美味しい。 そうだ、ワインを買って帰ろう。チリワインは安くて美味しいと
評判だから。
同じ飛行機に日本人男性が二人いる。何処へ行くのだろう? 父と子のようだが。

途中ワンストップした後、カラマへ到着。約2時間のフライト。空港からタクシ−に乗って目的地
のサンペドロ デ アタカマ行きのバス停迄行く。ここ、カラマには有名な銅山があり、
一般にも見学が出来るそうであるが、市役所へ行って手続きをしなければならなく、面倒くさい。
また、時間も今回は無いので諦めた。
バスで砂漠の道(勿論舗装なんてされておらず、砂漠を削って道を作ったという感じ。)
約2時間揺られ最終目的地、サンペドロ デ アタカマに到着。
ここは、もう、ペル−とボリビアに近い。
日はとっくに暮れている。 しかし、街灯は皆無に等しく真っ暗だ。
ところで、予約したホテル「オステリア サンペドロ デ アタカマ」は何処にあるのだろう? 
バス停前の食料品屋に尋ねる。 どうやら道というか通りは一本だけのようだ。 
不安げにその道を進むと案内があった。 ほっとしながら、ふと上を見上げると実に星が綺麗だ。

土地が乾燥しているせいかも知れない。でも、何かおかしい。普段見慣れている星座がないのだ!

見たこともない星座だらけ。 
そうか! ここは、南半球。 見える星が違うのは当然だ。

「こんばんわ。予約していたAです」
「お待ちしていました。レストランもあるので、ご利用ください。ただ、電気は自家発電いたして
 おります。 夜10時になると電気が消えますのでご了解願います。」
な、なに〜。その時間になったら、寝ろ!って事か〜!
仕方なく、夕食を取って、シャワ−を浴びたらもう10時近くになった。
やばい! 早くしないと真っ暗になってしまう。 案の定、10時ぴったりに消灯。
他にする事がないので、寝る事にした。 気持ちよく寝静まってからどれ位経ったろう?
いきなり電気がついた。 な、なんじゃい! 時計を見ると4時。10時という早い時間に消灯に
なるわ、夜明け前の4時に急に電気はつくわ。 一体ど〜なってんの?
外から発電機の音だろうかなんか機械の音がする。 ホテル内にもなんやら物音がしてきた。 
約30分ほど経って、電気がまた消え、物音もしなくなって、再び沈黙と暗黒の世界が訪れたので、
再度寝る事にした。

翌朝、食事を取り、小さな村を散策。 お土産品を売る店が何件かあったので、会社の女の子に
ペンダント数個、置物2個購入。

ここの住民のほとんどがインディオであり、その祖先は、東洋である。はるかベ−リング海峡を
渡って、アンデスへ定住するようになった。 容姿をみると、明らかに東洋系だと判る。 
しかし我々と同じ東洋系の人種がスペイン人に征服され、言葉もスペイン語を使うのは何か
異様な感じがする。

その歴史は、1492年、コロンブスがカリブの島、サンサルバド−ル島に到達する事から
始まる。西洋にとっては、輝かしい発見であったかもしれないが、先住民、つまりインディオ
(スペイン語でインド人の意味、ここは当初、インドの一部と考えられていた。)にとっては、
略奪、殺戮、搾取の始まりでもあった。
この発見によってさまざまな物が、西洋諸国へ、そして、後に東洋へともたらされた。
中南米原産の作物、タバコ、トマト、とうもろこし、じゃがいも。これら全ては、中南米が
原産であり、あっという間に全世界へ広がった。
一方、もうひとつの海洋国でスペインと同じイベリア半島の国、ポルトガルが喜望峰を廻り、
東洋へ辿り着いた。 そして、スペイン人がもたらした中南米原産品がポルトガル人を
経由して東洋へともたらされた。 マゼランが世界一周(マゼラン自身は、世界一周はして
いない。途中立ち寄ったフィリピンで、その原住民に殺されている。 殺人の首謀者の名前を
ラプラプと言った。)した時に、南米原産のものが、そこから西洋を経由して既に東洋に
もたらされていたものがあった。 
それは、”梅毒”である。 つまり、少し極端な言い方かも知れないが、人類より梅毒の方が、
早く世界一周を果たした事になる。

16世紀インカ帝国を滅ぼした
フランシスコ ピサロの配下の
征服者(コンキスタド−ル)が、
チリにまで足を運び、ここでも
スペインの配下となって
しまった。
宗教もキリスト教を強制的に
信仰させられた。インディオ達
のここでの生活はきっと苦しい
のであろうか、着ているものみすぼらしい。だが、年配者は洋服
などを着ず、カラフルな民族
衣装を纏っている。 民族の
誇りとスペイン系白人に対する
抵抗の意味もあるのかもしれ
ない。
この村にも、カトリックの教会
がある。 白壁に囲まれた、
南欧を彷彿させる実に趣のある
教会だ。 日曜日には、カトリック教徒となったインディオ達もサにやってくるのであろう。


周辺のツア−を申し込みに旅行代理店へ行く。 本日夕方、アタカマ塩湖。そして、明朝の
タティオの間欠泉群を申し込む。

アタカマ塩湖ツア−の時間が近づいた。 ホテル前で待っていたら、バンで迎えが来た。
この車でいくのだろう。 車の中には既にアメリカ人の家族3人連れが乗車している。
彼らも一緒に同じ目的地へ行くのだろう。
日も暮れて、夕日に照らされたアンデスの山々が実に綺麗だ。
目的地に1時間余りで到着。 我々だけでなく結構観光客が多い。 他にも旅行代理店があって、
そこからも来ているのであろう。 なんと、飛行機で一緒だった日本人父子も来ていた。
何かわざとらしく避けられているようで嫌な感じ。 結局、お互い視線を合わせることが
なかった。
塩湖というので、水が多いのと思っていたが、ほとんど水は無く、干上がった湖という感じだ。 
運転手兼ガイドさんの話では、ここ数年雨が少ないそうだ。
塩湖やから、ホンマに辛いのやろなあ〜? 試しに岩に指を付けて舐めてみる。 
やっぱり塩辛い。(当たり前だ!)
ここは、フラミンゴの生息地となっており、湖に生えている藻を食べているそうだ。
遠めにフラミンゴを眺めていると、1羽づつ飛び立ち、藻のある場所へ移動している。
色がピンクで鮮やかだ。


フラミンゴともおさらばし、ホテルへ。 食事を終え、シャワ−を浴びて消灯と同時に寝る事
する。 
明日は間欠泉を見に、朝早く起きなければならない。
ガイドさんが4時に来ると言っている。また、ホテル側がお昼ご飯としてサンドイッチを
作ってくれるらしい。(こんな早く起きて本当に作ってくれるんやろか?)


4時少し前にセットした目覚まし時計が鳴った。すると、ほぼ同時に電気が点いた。
そうか! 昨日、4時きったりに電気が点いたのは、同じツア−へ出かけた客がいたんだ。
ようやく、昨日の異変が理解できた。 サンドイッチを無事(?)に受け取り(疑ってごめん!)
迎えの車を待つ。 自動車のヘッドランプの光が近づいてくる。 
運転手を見ると、昨日の同じガイドさんだった。 いざ間欠泉へ!
舗装なき道をアンデスの山へ登ってく。 途中、道が無くなってしまい、砂漠の中を走っている。

いや〜。道無き道を良く運転できるなあ〜。 と、関心しつつも、本当に目的地に着くんやろか?
と、一抹の不安が過ぎって来る。
どれ位経ったであろうか。 どんどん車は山間部を登っているのであろう。 体感温度が
冷たくなって来た。 途中、小便の為に外へ出たが、真冬の寒さ。吐く息も白い。
3時間程、走って目的地へ到着。 標高約4,000mのところだそうだ。
観光客は誰一人もおらず、我々だけだ。 いたるところに温泉が湧き出て湯気を放っている。
しかし、この寒さである。 お湯の流れは暫く行くと凍ってしまう。
夜が明けて、明るくなって来るに連れて、観光客が増え始めた。
見たところ、ほとんどがアメリカ人のようだ。
彼らは実に準備が良い。 しっかりダウンジャケットに身を包み、寒さ対策をしている。
そうだよなあ。これ位寒いとダウンジャケットも必要になるわな。 ポロシャツにスイング
トップじゃ、準備不足もいいところだ。
一ヶ所、温泉に浸かれる池のような所があるが、水着着用が義務付けられているので、辞めた。
入りたい気もしたが、脱衣所もなく、下は土なので、体が汚れるだけ。
体格の良いアメリカ人に“ソチン”を見せるわけにもいかない。
ガイドさんの話によると、ここも雨が降らない影響で、間欠泉の吹き上がる高さが小さく
なっているそうだ。
我々が訪問した際も、 ちょろちょろ出ていただけで、ちょっとがっかり。それより寒い!もう帰ろう。という事になり、いそいそと車へ戻る。

間欠泉群を後にし、戻る事に。 来るときは真っ暗闇だったので、判らなかったが、活火山が
いたるところにあり、煙を上げている。 道無き道を戻り、お昼頃に到着。
結局サンドイッチは、戻って、広場で食べる事に。と、いきなり「こんにちは」と、
流暢な日本語が聞こえてきた。 日本人の女性だった。 「こんにちは」と返事したが、
急いでいるのか、そのまま、消えていった。 恐らく、この当りに住んでいるのであろう。
一見して観光客ではなさそうだった。 こんな所にも日本人がいるんだ。と関心しつつ、
カラマへ戻るバスの出発の時間が近づいてきたので、バス停へ急ぐ。

サンペドロで予約したホテルへチェックインして、夕食へ出かける事に。 
ガイドブックに出ていたレストラン「Osorno」へ行く途中、誰かに声を掛けられた。 
振り向くと我々の良き運転手兼ガイドさんだった。 晩御飯を食べに行く。
といって、レストランの名前を言うと、有名なレストランだとの事。

まだ、早いのだろうか、まだ客は誰もいない。スペインと同じで10時頃から取るのであろうか? 
とりあえず、名物メニュ−の「Parrillada」を注文。 と、ここでハプニング。いきなり、
停電になり、真っ暗。 しかし、ここのレストランの従業員は、慣れているのか全然動ぜず、
準備してあった蝋燭に火を灯し、何にもなかったように振舞っている。 
頼んだメニュ−は、一種の焼肉であり、牛、豚、鳥が一緒に盛り付けられている。 
が、しかし、いかんせん硬い。味も今一だ。 結構、残してしまった。 
レストランの方、ごめん!


翌朝、ホテルで手配してもらっていたタクシ−に乗り込み空港へ。
飛行機からアンデスの山々を眺めながら、サンチアゴへ近づくと、川が氾濫して洪水が起きて
いる地域が見られた。
機内で配られた新聞に目を通すと、ある地域に対して豪雨と川の氾濫で非常事態宣言が
大統領から出されたそうだ。

サンチアゴでの滞在ホテルは、ホリデ−インにした。 やはりアメリカナイズされた所が良い。 
チェックイン後、急いで買い物を済ませて、地下鉄で遠距離行きのバス停へ向かい、そこから、
リゾ−ト地のバル パライソへ。 遊覧船に乗って湾を観光。ここは、チリの海軍施設があり、
観光客に軍事施設や軍に属する船の写真を撮らないようガイドさんが注意している。 
遊覧船観光した後、電車でビジャ デル マルへ。
実は、行きたかったが飛行機の便が日程にあわず、行けなかったイースター島。
モアイ像が見れないので、仕方なく、ここビジャ デル マルにある
「モアイ像と考古学博物館」へ。 
既に閉館間際だったが、取りあえず、入るだけ入った。 
が、期待していた程、大した事はなく、博物館の前にある大きなモアイ像が目を引くだけだ。 
さて、サンチアゴへ帰ろう。 しかし、バス停がどこにあるか判らん。 
取りあえず、上品なおばさんが歩いていたので訪ねるとびっくりしながらも、
(変な黄色い人間がスペイン語で話し掛けて来たからか)親切に手を取る様に教えてくれた。
 

サンチアゴへ着いて、チリ最後の晩餐。 ガイドブックにあったシーフードレストラン
Puerto Marisko」へ。 
うん、ここは雰囲気といい、食事も最高。接客も良く実に質の高いレストランだった。 
少々高かったが、大正解だった。 最初の魚が出て来た時なんか、醤油まで出してくれた。 
大満足してタクシーでホテルへ帰る。


日本へ戻る日が来た。 飛行機の出発迄は少し時間があるので、市場へ足を運ぶ。
ここにあるレストランで魚貝スープと、ウニを注文。 しかし味は、イマイチ。
貝は砂がしっかり取れていないし、少々塩辛い。 ウニも酢漬けにしてあって期待した味では
なかった。 
ここへ来たもうひとつの目的は、チリモージャという果物を買う事である。 薄い緑がかった
角張った大きい果物で、 日本ではあまり見受けられない果物だ。 食感は、洋梨のようで、
余り美味しいとは思わなかった。


急いでワインを買いに走る。 前にお店を捜し、購入する銘柄も既に決めてある。
重くなるのは承知で4本買った。 タクシーにかけ込み空港へ。 
再びこの地を踏む事があるだろうか?


今回の旅は、初めての南半球であり、特に星座がまるっきり違うのには驚いた。
サンチアゴ等の大きな都市は、スペイン人の作ったものであり、南欧の都市と似ていて、
いきなり目隠しをして連れて来られれば南欧の都市と思い込んでしまうであろう。 
言葉もスペイン本国と比較して少し単語に違いがあるが、何ら変わりはない。
大きな都市は、やはりスペインを中心とした白人系が多く、黒人はほとんど見なかった。
ここは、ブラジルとは違っている。 結局、奴隷としてアフリカから連れて来られたのは、
つまり、農作業をさせる為だった。
キューバの砂糖、ジャマイカ、ブラジル、コロンビアのコーヒーの大規模プランテーションで
強制労働させた。 
アメリカへも元々は南部を中心とした棉の収穫の為に連れて来られたのであり、即ち、
農作業の為の人手不足を解消する意味でアフリカの黒人を強制的に奴隷として働かせた。 
従って、その作業を必要とされた場所、つまり、ブラジル等(コーヒー)、アメリカ(棉)、
キューバ(砂糖)といった農作物が大規模に取れる所が中心となっている。
農業の発展していないその他の国、例えば、チリ以外にアルゼンチン、ペルー、ボリビア、
メキシコ等には黒人は少ない。 サッカーの代表チームを見れば、メンバーに黒人が皆無で
ある事よってそれが裏付けられよう。






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