源九郎吒枳尼天

奈良県大和郡山市洞泉寺町


洞泉寺および源九郎稲荷神社に近接してある大きな碑で、「源九郎吒枳尼天」と刻まれています。洞泉寺の管轄になる碑なのでしょう。碑の建立者名は「大阪源九郎會」と刻まれ、昭和2年に建てられたことが読み取れます。

“吒”という文字は、中国の道教神話に登場する“哪吒太子:なたたいし”や不動明王の眷属である“制吒迦童子:せいたかどうじ”などに使われることのある文字です(テキストエディタで変換し難い場合があります)。“吒枳尼天”・“荼枳尼天”共に漢字表記として使われますが、以降は“ダキニ天”と表記することにします。

関連して拙サイト内の次のページもご参照くだされば幸いです。

【Link:源九郎稲荷神社】
【Link:洞泉寺】



稲荷信仰には神道系の流れと仏教系の流れがあり、神道系の稲荷信仰は主に宇迦之御魂(ウガノミタマ)神を祭神とします。また、仏教系の稲荷信仰はダキニ天を本尊とします。

ダキニ天は古代インドのヒンズー教に出自を持つ、人の心臓を食らう女神ダーキニーが仏教に取り入れられた神格で、諸天と同様に仏教の守護神となったという神話を持ちます。さらに日本の仏教に取り入れられてからのダキニ天は、鎌倉期ごろから狐との習合が進み(狐の日本史:中村禎里著)、「貴狐天王」あるいは「辰狐王菩薩(しんこおうぼさつ)」の名を持つに至りました。「辰」は龍であり夜空の星であり(北辰は北極星のこと)、「辰狐」とは神霊能力を持つ最高位の狐を意味します。

【Link:辰狐王菩薩画像検索】

辰狐王菩薩はその名の通り狐に乗る天女の姿で表現されます。日本におけるダキニ天の尊像もこの姿で表され、これは辰狐王菩薩の姿であることが分かります。洞泉寺にも秘仏として狐に乗る天女の姿のダキニ天像が厨子の中に収められています。

同碑と洞泉寺本堂の間に1つの堂があり、「源九郎天仮本殿」の扁額が掲げらています。洞泉寺のダキニ天像は、元々この堂内に祀られていたと聞きます。

●「源九郎天仮本殿」と書かれた堂●


神仏習合期の本地垂迹思想のもとでは、神社によっては本殿内の神体に鏡などの神道的な物実を用いず、祭神の本地仏の像(つまり仏像)を神体として用いるケースが多々あり(神々の明治維新-岩波新書:安丸良夫著)、ウガノミタマ神の本地仏はダキニ天とされました。

源九郎稲荷神社と洞泉寺の関係が、神仏習合期に本地仏を神体とするケースであったかどうかは残念ながら承知していませんが、「源九郎吒枳尼天」の碑は、おそらくは洞泉寺のダキニ天を意識して建てられたものでしょう。

仏教系稲荷信仰のダキニ天と神道系稲荷信仰のウガノミタマ神が習合されたいきさつは、ダキニ天もウガノミタマ神も共に狐を眷属とすることを共通要素とするためと一般的には考えられています。ただし、古代に伏見稲荷を創建した秦氏の固有信仰や、平安期の京都東寺と伏見稲荷の関係(伏見稲荷は東寺の鎮守だった)を勘案する必要があると述べる研究者もおられ、習合されたいきさつの研究は今後さらに深く進んで行くものと思われます。



源九郎狐の活躍譚は主に「義経千本桜」に描かれます。一方で、「源平盛衰記」には、平清盛が「吒天の法」を修したとの記述があります。「吒天の法」とはダキニ天(源平盛衰記では貴狐天王)に対し一代限りの栄華を望む修法です。

【Link:源平盛衰記 巻第一:日本文学電子図書館】
(P0013をご参照下さるか「吒天の法」でご検索下さい)

平清盛はダキニ天に栄華を祈り、その平家を滅ぼすため源義経が尽力し、そして源義経と静御前を源九郎狐が守護する・・・ これら歴史上の登場人物の活動の影の表舞台に現れない部分で、ダキニ天やウガノミタマ神はどのような力を発揮したのでしょうか・・・

「義経千本桜」も「源平盛衰記」も、源義経や平清盛の活動期の同時代資料ではなく、そこに多くの史実が含まれているとはいえません。が、未来から過去を考える私たちにとって、同碑に「源九郎吒枳尼天」の名を見ることは歴史の皮肉を感じざるを得ないものがあります。





INDEX