源九郎稲荷神社

奈良県大和郡山市洞泉寺町
祭 神

宇迦之御魂神
源九郎稲荷大明神

当社源九郎稲荷神社は、かつて伏見稲荷(京都府)・豊川稲荷(愛知県)と並び、日本三社稲荷の一つとされていました。

当社の現社殿は大正時代に建てられたとのことで、鳥居・社殿ともに神社建築としては珍しく北向き(正確にはやや北北西向き)になっています。

社名にある「源九郎」とは、源九郎判官義経(みなもとのくろうほうがんよしつね)に関わることから名づけられたとされています。ために、本来は「稲荷神社」であり、明治期には「保食神社(うけもち神社)」と呼ばれた記録が残っているところ(神社明細帳:奈良県公文書等)、現在では「源九郎稲荷神社」と呼ぶことが一般的および正式な神社名になっています。



当社の由緒を可能性だけで考えると、平安期に発祥する古い稲荷神社だった可能性があります。が、残念ながら正確な祭祀の経緯はわかりません。

稲荷神社と狐の関係ですが、神道的な稲荷信仰では稲荷神すなわち宇迦之御魂(ウガノミタマ)神を穀霊神として祭祀します。また、ウケモチ神やトヨウケ神を稲荷神とすることもあり、「ウカ」や「ウケ」が稲荷神の本質であることが分かります。これは先術の「保食神社」の名に通じます。狐は稲荷神のお遣いとされています。

仏教的な稲荷信仰は吒枳尼天を本尊とし、狐はやはりそのお遣いとされています。吒枳尼天は白狐に乗り稲穂を持つ天女の姿で表されます。

そして当社の狐、即ち「源九郎狐」が活躍する様々な伝承が存在します。源九郎狐の伝承は、中世のものだけではなく近代に入ってからの伝承まで存在しており、これはいかに源九郎狐が人々の間で親しまれてきたかということの表れでしょう。

伝承の中の源九郎狐の活躍をいくつか、新しいものから古いものへ遡る形で見てみましょう。※奈良県史13民俗・郷土の伝説:駒井保夫著 その他の資料を参照しています。

●綿帽子を買った狐●

源九郎稲荷神社近くにある寺戸屋という果物店は、その昔、綿帽子屋でした。ある日、一人の男が綿帽子を買いに来て、代金は月末に源九郎稲荷社で支払うと言って去りました。店主が月末に代金を取りに行くと、神社側の者は知ないといいます。押問答をしていると『お狐さん』が眷属を連れてズラリと現れ出ました。見ればその『お狐さん』たちが、みな綿帽子をかぶっていました。(柳田國男の本棚20参照)

この話の最も有名なバリエーションは、綿帽子を買いに来たのが婦人で、綿帽子をかぶっていたのが3匹の子狐だったというものです。また、店の者は苦笑しながら代金を免除したなどのパターンをも生んでいます。

ともあれ、何とも微笑ましいお話です。源九郎稲荷神社には狐の一族が今も住んでいるのかも知れません。



●源九郎吒枳尼天●

大和大納言と呼ばれた豊臣秀長(豊臣秀吉の異父弟:1540年〜1591年)が郡山城を居城とした時、長安寺村(現在の大和郡山市長安寺町)の宝誉上人の夢枕に源九郎を名乗る白狐が老翁の姿で現れ、「郡山城の南東に当たる広野原(現在の洞泉寺町一帯)に堂を造りダキニ天を祭祀せよ。そうすれば、あらゆる災厄から城を守ろう。」と告げました。宝誉上人から夢の話を聞いた豊臣秀長は宝誉上人に寺院建立を許可し、そして1585年(天正13年)に洞泉寺が建てられダキニ天が祭祀されました。

一方、「ふるさと大和郡山歴史事典」の記述では、源九郎稲荷神社の最初の祭祀場所は郡山城内竜雲郭で、後の1719年に現社地に移転されたとも伝わります。この竜雲郭は郡山城内のどこになるか正確には分かっていませんが、“竜”という文字があることから本丸の東南の一角だったのではないかと推測されています。

同じく「ふるさと大和郡山歴史事典」では、夢の老翁のお告げにウガノミタマ神やダキニ天の名は登場せず、源九郎狐そのものを祀れという啓示であったとも伝わります。現社地住所や地図からお分かりの通り源九郎稲荷神社と洞泉寺は隣接しており、洞泉寺には本尊として鎌倉期の木造阿弥陀如来立像、そして今もダキニ天が祀られています。

このように源九郎稲荷神社の発祥にはいくつかの異説が見られるわけですが、いずれにせよ豊臣秀長治世の時期の“城鎮守稲荷”、つまり戦国武将が居城を守るためダキニ天を祭祀する稲荷信仰が源九郎稲荷神社の発祥と考える余地があるかも知れません。

神道的稲荷であるウガノミタマ神祭祀や仏教的稲荷であるダキニ天祭祀が混淆し、その発祥が正確に分からなくなっているのは、ほかならぬ源九郎狐の仕業なのでしょう。
●洞泉寺そばにある源九郎吒枳尼天の碑●

●霊験●

宝誉上人への夢告の話からしばらくして、豊臣秀長は源九郎狐を郡山城に呼び寄せました。源九郎狐はそれに応じて一族をひきい、裃を着て正装したうえ豊臣秀長の前に表れ、源義経との関わりの中の「源九郎」の名の由来についての寸劇を演じました。源義経との別れのシーンは豊臣秀長や群臣の涙を誘うものだったとのことです。これは洞泉寺に伝わる「源九郎天縁起」によります(郡山町史参照)。

さらにその後、郡山城下が兵火に遭い、その炎が城の内外を焼き尽くしそうになることがありました。これは1615年、豊臣方大野氏と徳川方筒井氏の「郡山城の戦い」かと思われます。その時、源九郎狐は白い竜に化身して黒い雲に乗り大雨を降らせて火を鎮めた、という霊験も伝わります。源九郎狐の大活躍の様を想像するのは非常に楽しいことです。



●宝剣小狐丸●

菅田明神(奈良県大和郡山市の菅田神社といわれています)の境内に小狐が住んでいました。菅田明神の近くに淵があり、そこに住んでいた大蛇が村人を苦しめるので、村人と仲の良かった菅田明神の小狐は源九郎狐の加勢を得て大蛇を倒すことができました。村人が大蛇の尻尾を切り開くと一振りの剣が出てきたことから、村人はその剣を宝剣「小狐丸」と名づけ、石上神宮(天理市)に奉納しました。

菅田神社の祭神は天目一神とされていおり、産鉄神の要素を色濃く持つ神です。伝承そのものは古代にさかのぼるものとは考えられませんが、イナリは時に「鋳成」とも記述されることがあるので、産鉄神・剣・石上神宮・スサノオのオロチ退治伝承に似た話など、鉄に関する興味深げなキーワードが並んでいます。

なお、この伝承にも、宝剣「小狐丸」が登場しないもの、“小女郎稲荷”や“おせん狐”が登場するものなど複数のバリエーションがあります。
●吉野山 導之稲荷社●

●吉野山 導之稲荷●

源九郎稲荷神社の由緒として、吉野山の導之稲荷(みちびきのいなり)を勧請したという1つの説があります(大和郡山の観光資料 P128:藤田久光著)。「導之稲荷社」は現在、金峯山寺蔵王堂の傍らに鎮座しています。

導之稲荷には次のような由緒があります。「吉野拾遺」に、南北朝の騒乱の時期、京都花山院を脱出した後醍醐天皇が山城国紀伊郡の稲荷神社(現在の伏見稲荷)の前で「むば玉の くらきやみぢに迷うなり われにかさなむみつのともし灯」と歌を詠んだところ、その稲荷神社より赤い雲が立ち現れて、金の御岳(吉野山金峰山)へと導いたという伝承が記述されます。導いた稲荷神は吉野山に祀られたとのことです。国立国会図書館デジタルコレクションをご参照下さい。

【Link: 吉野拾遺 5/49〜6/49】

「洞泉寺記録」には、豊臣秀長が郡山城築城の際に吉野川のほとりからから遷祀したとあり(寺院神社大事典P586:平凡社)、そのこととの関係が伺われます。とすれば、源九郎稲荷神社の発祥は、南北朝期以降(後醍醐天皇京都脱出の史実と絡めれば1333年より新しい時代)に導之稲荷を勧請したものと仮定されます。吉野川のほとりにあり秀長の勧請の元となったのが導之稲荷ということでしょうか。

また、想像をたくましくすれば、後醍醐天皇を導いた者が源九郎狐サイドの者ではなかったか?という、それこそ判官贔屓的な活躍譚を想像してみたくもなります。伏見稲荷や源九郎稲荷と吉野山を結ぶ狐たち(に象徴される何者か)のネットワークが機能したかもしれないという夢想にふけるのも面白いものです。

源九郎稲荷神社と吉野山との繋がりを推測する1つの試みとして。



●義経千本桜●

歌舞伎「義経千本桜」のストーリーから。

源義経(1159年〜1189年)の愛妾静御前が、吉野にいる義経の元を尋ねようとした時、源九郎稲荷神社の白狐が義経の忠臣佐藤忠信に化身して静御前のボディガード役を勤めました。この白狐を「狐忠信」と呼びます。

これは義経が静に与えた鼓が白狐の両親の皮で作られていたためで、親狐を想う白狐の情と、義経・頼朝兄弟の非情を対比させた筋立てとなっています。その後、義経が奥州に向う時、白狐と分かれるにあたり、義経は白狐との別れを惜しみ源九郎(げんくろう)の名を与えました。直接には義経千本桜の内容が「源九郎狐」の名の発祥になります。
●吉野山 佐藤忠信花矢倉の碑●
源九郎稲荷神社発行の由緒書きより抜粋引用

天智天皇の白鳳年間、平群の真鳥が叛逆を企て、帝位を奪おう
とした時、大伴金道麿が逆賊誅伐の勅命を承わり天地神明を念
じ、特に寛平稲荷(当社祭神のはじめの御名)を祈って出陣し
た。明神はたちまち武人と化し、数多の白狐を遣い、この大敵
真鳥を討ち平らげたので天下は平静となった。
          (大伴・真鳥実記十四冊の中巻八)

●寛平稲荷●

上記由緒書きからの引用文にある大伴・真鳥実記とは、正確には「大友真鳥実記」といわれる1737年(元文2年)刊行の「軍記もの」です。

【Link:大友真鳥実記】

それをもとに「大伴金道忠孝図会(おおともかねみちちゅうこうずえ)」が書かれました。平たくいえば「大伴金道忠孝図会」は「大伴真鳥実記」のリメイク版となります。

【Link:大伴金道忠孝図会. 前,後編 / 好華堂野亭 選 ; 柳斎重春,宮田南北 画図】

両者の内容の違いについては「広島大学 学術情報リポジトリ」の中の

【「図会もの」補説 : 山田意斎の読本をめぐって(PDFファイル)】

を参照することができます。そのP29に寛平狐(源九郎狐)の記述がありますが、残念ながら詳しく考察されているわけではありません。

「大伴真鳥実記」での悪役は「大友真鳥」とされており、大伴真鳥でも平群真鳥でもありません。また、上記由緒書きを古代史に関連付けたとしても、天智称制(661年)から天智帝死去(672年)までの期間を含む白鳳年間(645年〜710年)に、天智天皇・大友(平群)真鳥・大伴金道といった人物群が揃う史実はありません。



日本書紀・武烈紀には、25代武烈帝の治世に平群真鳥が反乱を企て、大伴金村に討たれたという記述があり、上記由緒書きの内容は武烈紀と混同されることがあります。

しかしながら、「大友真鳥実記」もそれをもとに書かれた「大伴金道忠孝図会」も九州を舞台にしてもおり、逆臣大友真鳥を討つために金道丸(大伴金道)が奮戦するストーリーです。その中で金道丸への協力者として寛平狐という存在がクローズアップされることになります。この寛平狐が源九郎狐であると上記由緒書きに示されているわけですが、寛平狐と源九郎狐がどう繋がっていくか、これはいずれ追ってみることにしましょう。

なお、「寛平」を元号の中に探してみると、西暦889年から898年までの期間になります。この時期の天皇は宇多天皇および醍醐天皇で、また、桓武天皇の孫高棟王・善棟王・高望王(清盛の系)が「平朝臣」を名乗り桓武平氏が始まる時期でもあります。加えて「源平盛衰記」には、平清盛が、自らの栄華のため「荼枳尼天法」を修したとの記述が有ります。

源九郎稲荷神社(寛平稲荷)の発祥が寛平期なのかどうかは他の方の研究を待つことにしますが、もしそうであるなら、清和源氏源義経に繋がっていく寛平稲荷の発祥と、源義経によって滅亡へと追い込まれた高望王流を含む桓武平氏の活動開始期が重なることになり、歴史の持つ皮肉な動きの一端が見えるような気もします。

活躍譚の多くは超自然的な霊験を示すというものではなく、狐が何者かに化身して人と関わり活動する形式をとっています。源九郎狐の伝承を見ていくと、源九郎狐は、仏教系のダキニ天にも神道系のウガノミタマ神にも仕え、静御前を守る功績を上げ、時として白い竜に化身したり大蛇退治に加勢したりと、これほどに活躍した狐は他に見られないでしょう。そのように狐の存在が意識されたからこそ「やまとの大和の源九郎さんあそびましょ」と童謡に歌われもしたのでしょう。



当社の発祥を語る伝承は、寺院の縁起伝承や口碑伝承、またそれらを基にした近世文学など様々なものが見られ、歴史的に正確なところを知ることは困難です。

ならば、当社については由緒の古さを誇るより、源九郎狐の大活躍を楽しむことがその存在意義ではないかと思います。もちろんウガノミタマ神やダキニ天の存在を忘れるべきではありませんが、時に微笑ましく、時に勇ましく活躍する源九郎狐の存在があってこそ当社がこの地で長く親しまれてきたといえるでしょう。伝承を紐解き、狐の活躍に注目することも楽しいものです。

当社源九郎稲荷神社を訪れるとき、きっと今も社殿の影から、綿帽子をかぶった狐や裃を着て正装した狐、竜に化身し雲に乗ったこともある狐たちがこちらを見ていることでしょう。





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