牛頭天王とスサノオV
牛頭天王かスサノオか

牛頭天王とスサノオが習合されてきたのは平安期から室町期を越え、江戸期が牛頭天王信仰(そのうちでも祇園信仰)の最盛期だったとされています。この祇園信仰がどのようなものかというと、八坂神社(京都:もと祇園感神院)の祇園祭や、津島神社(愛知県津島市:もと津島天王社)の天王祭(愛知県津島市)にて多くの人がご存知の通り、疫病封じの信仰であり祭りです。日本の各地に様々な形の祇園祭があります。

そして、八坂神社(京都)の祇園祭や、津島神社の天王祭は、神社名や祭神がどのように変わろうと「スサノオの祭り」、つまり「岩戸隠れと出雲降り」や「ヤマタノオロチ退治」に関連する祭りにはならず、それは牛頭天王への祭祀による疫病封じの祭りのままです。どの牛頭天王社でも祇園祭りが行われたわけではないでしょうが、牛頭天王社がある限りそこに祇園信仰またはそれに限りなく近い信仰があったことでしょう。



牛頭天王の名、一つにはこれが牛頭天王への祭祀が廃される理由になったとか。つまり「テンノウ」という発音が天皇に対し不敬であるということで、江戸期の人たちにとっては「テンノウ」と言えばミカド(天皇)ではなく、ことほど左様に「牛頭天王」の方が身近だったのでしょう。牛頭天王社においてスサノオと牛頭天王が習合していたとはいえ、スサノオを意識するよりも牛頭天王を意識する気持ちの方が、江戸期の庶民レベルでは強かったのではないでしょうか。

もっとも、庶民にとっては、現世利益(祇園信仰は五穀豊穣祈願などとは違う疫病封じの信仰ですが、あくまで現世利益を求めるものです)が得られるのならば、神話の系統や祭りの主役はどうでもいいことでしょうから、おそらくは習合されていた時期から牛頭天王もスサノオもその違いが意識されながらもごちゃごちゃにされ、正確に把握されることは少なかったのではないかとも推測します。

これは現代であっても、というより現代であればなおさら言えることでしょう。京都をはじめとする各地の祇園祭が疫病封じの祭りであり、そしてそれが牛頭天王の祭りであることを意識する人はどれだけいるでしょうか。さらに、牛頭天王がスサノオと習合されていたことを意識する人はどれだけいるでしょうか。

牛頭天王信仰は、医療が発達していなかった時代、病気になった時は強力な神仏に祈るしか無いということそのものの信仰だったのかもしれません。病気にならないように、流行り病に罹らないように、罹った場合は軽く治まるように。祇園祭りという疫病封じ祭りが、食物が腐敗しやすい夏に執り行われる、このことが夏越祓えと茅の輪くぐりが結びついた理由と推測するのもあながち的外れとはいえないでしょう。そこに求められるものは、あくまで現世利益である、そういった信仰だったことでしょう。



あるお稲荷さんで、般若心教を熱心に唱える人を見かけたことがあります。神仏分離以前は、本地垂迹思想により仏像を神社の神体としていたケースも多く、神前でお経を読むことが珍しくはなかったかもしれません。稲荷(宇迦之御魂神:荼枳尼天)にせよ八幡(八幡大菩薩)にせよ神仏習合の影響抜きに考えることはできません。現在では寺院と神社は分離してますが、江戸期あたりでは神仏習合の社は村落共同体の中でも非常に重要であり、生活に密着してたわけでしょう。そうした中でも牛頭天王信仰は庶民にとって本当に重要だったのでしょう。

スサノオ系神社が多いことは、現在の感覚では記紀神話のスサノオを祀る神社が多いというだけのことになります。が、厳密に考えれば、牛頭天王を拝するのとスサノオを拝するのは違う意味になるはずです。七福神のダイコク様が仏教の大黒天であって、神道の大国主神とは違うように。このあたり、信仰という観点から見ればどうなるのか、どなたかの宗教的なご意見をお聞きしたく思っている次第です。

牛頭天王信仰や神仏習合の信仰の広がりを踏まえておいた方が、現代に残る神事や慣習の意味などが解釈可能になって面白いのではないかと思います。

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八 神




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