大物主神は饒速日ではなく・・U
私的「古代日本正史」批判

●クシミカタマとクシタマ●

原田は、記紀以前の(712年以前の)資料を用いたと繰り返し述べていますが、ではそれ以外の、記紀以降の資料ではどのような記述があるでしょう。

日本書紀の第六の一書では、オオモノヌシ神はオオクニヌシ神の別名とされ、また、オオクニヌシ神の幸魂・奇魂とされています。日本書紀第二の一書では、国譲りの時に帰順した国津神の首長に、ミホツヒメと結婚するオオモノヌシ神の名が見えます。これらの記述を受けたと考えても良いでしょう、京都府亀岡市の出雲大神宮ではオオクニヌシ神とミホツヒメを夫婦神として祀り、奈良県磯城郡田原本町の村屋坐弥冨都比売神社ではオオモノヌシ神とミホツヒメを夫婦神として祀ります。ニギハヤヒとミホツヒメの関係は、原田説ではどのようなものだったでしょうか?

延喜式所収の「出雲国造神賀詞」では、オオクニヌシ神が言うところの「己命の和魂を八咫ノ鏡に取り託けて倭大物主櫛甕玉命と御名を称へて大御和の神奈備に坐せ」と記述されています。この記述を拠り所とするものか、オオモノヌシ神を「大物主櫛甕玉命」の名で祀る神社は多々あり、記紀以前の神社を探すまでもありません。

その成立が記紀より新しいと見られる、物部氏の権威を高めるために物部氏の者の手によって書かれたであろう「先代旧事本紀」では、ニギハヤヒは「アマテル・クニテルヒコ・アメノホアカリ・クシタマ・ニギハヤヒ」と表されます。ここにニギハヤヒをオオモノヌシ神と関連付ける記述はありません。

同様に物部氏の者の手によって書かれたであろう、古史古伝の1書とされる「秋田物部文書」であっても、オオモノヌシ神とニギハヤヒを関連付ける内容はやはりありません(秋田「物部文書」伝承:新藤孝一著)。つまり原田の論では、祭祀氏族による視点や、祭祀氏族の都合による祭神の設定・変更などをほぼ無視しています。正しい研究姿勢とはいえません。



「クシタマ」についてを見てみましょう。

先代旧事本紀・天神本紀に「天櫛玉命、鴨縣主等祖」、同・神代本紀に「天神玉命、葛野神縣主等祖」とあり、姓氏録山城神別に「神魂命孫、鴨武津之身命」の記述があります。まとめのように、山城加茂氏系の賀茂縣主系図では「神皇産霊尊−天神玉命−天櫛玉命−鴨建角身命」とされています(以上、「姓氏家系総覧:秋田書店」を参照)。鴨武津之身・鴨建角身は八咫烏のことです。

また、「伊勢国風土記逸文」には伊勢津彦という神が登場します。この神は「出雲の神の子出雲建子命、またの名は伊勢津彦神、またの名は天櫛玉命」と表されています。

どうやら「火明」を称する神と同様に、八咫烏の父親やイセツヒコ神など「クシタマ」を称する神は何神もいたようです。

とくにイセツヒコ神は、風土記逸文の説話では、神武に遣わされた天日別に追われ、東へ(信濃の国へ)去ったとされています。「クシミカタマ」と「クシタマ」が関連付けられると仮定した場合、「出雲」や「櫛玉」という名を持ち、信濃と関係がある伊勢津彦神は、ニギハヤヒより強い意味合いでオオモノヌシ神に繋がる神だと考えられてもよさそうなものです。もちろんこれは試案としてで、本校筆者自身が「イセツヒコ神=オオモノヌシ神」という考え方を肯定しているわけではありません。

そして、オオモノヌシ神の正体としてわざわざニギハヤヒを持って来る必要はないということがいえます。

「クシミカタマ」と「クシタマ」のように名の類似をとらえるなら、ニギハヤヒのほか、甕速日(ミカハヤヒ)・樋速日(ヒハヤヒ)・勝速日(カチハヤヒ:天忍穂耳のこと)といった「ハヤヒ」という神名を元にしての論も組立てられそうなものですが、原田説ではそういったつもりもなさそうです。

ニギハヤヒの妻の座に収まったトミノナガスネヒコの妹トミヤヒメを祀る神社は、奈良県北城郡広陵町に「櫛玉比女命神社」があり、その他にもトミヤヒメを祀る神社は知られていますが、祭神のトミヤヒメはあくまでクシタマヒメと表されます。決してクシミカタマヒメと呼ばれることはありません。

ニギハヤヒを「櫛玉饒速日」という名で祀る古い神社は、式内社に限らず多くみかけますが、「クシミカタマ・ニギハヤヒ」の名で祀る神社は本稿筆者の知る限りではただの1社もありません。

記紀以前であろうが無かろうが、古代に神々を祭祀した人たちは、「クシミカタマ」と「クシタマ」という二つの名を混同してはいなかったということにならないでしょうか。発音の類似で2つの名、2柱の神を同一神のように考えるのはかなり乱暴ではないかと考えます。

繰り返しますが、古事記の成立は712年、日本書紀の成立は西暦720年とされています。各地の風土記の成立は8世紀中葉、出雲国造神賀詞は927年に成立した延喜式に収められていますが、出雲国造神賀詞のおそらくは原型を、国造出雲臣果安が奏上したのが716年。そして先代旧事本紀の成立は9世紀初頭と考えられています。

いずれにせよ上記に要約した古文献その他の内容は、すべてが記紀以降の成立となり、原田流に考えるなら参照の必要のない資料といえるでしょう。

しかしながら上記の諸々の資料は、成立年代や編纂者の存在、また編纂に関わる政治的な意向など、その成立を取り巻くすべての情報が高い価値を持って歴史研究に用いられるものであり、その方向での研究が現になされてきました。記紀以前の神社の記録などというあやふやな資料を基にするよりもはるかに深い内容と確度を持つ論を構築することができて至極当然であるといえるでしょう。



一方、原田が用いたという記紀以前の資料は、成立の事情や内容の正確さなどの点で歴史研究上の価値を認める必要のない資料ということができます。古文献その他の資料を頑なに利用しないということは、原田は、単純に自身が思い描く通りの論を構築したく思っていただけなのだろうと勘ぐることも可能です。

原田や原田説支持者は、記紀以降の資料、あるいは古代的・政治的な命令によるによる「二ギハヤヒ隠し」があったという繰り返し言います。が、隠されているでしょうか? 隠れているどころか、もともと何も無いのではないでしょうか。

祭神であれ人間であれ、何か・誰かを隠してきたことを示す資料が見つかったなら、アカデミズムの研究者なら飛びつくはずです。そうならないということは、原田説の中の根拠や推論が現代の歴史研究の方法論の中で認められないということに他なりません。それだけ原田は恣意的な推論を押し通しているわけです。

オオモノヌシ神とニギハヤヒはまったく別の神格であろうと考えます。オオモノヌシ神とニギハヤヒが同一神だと唱えるえる人のほとんどは、「クシミカタマ」と「クシタマ」が同じものだと考えているようです。「クシミカタマ」と「クシタマ」が同じと考える場合、まず「クシミカタマ」の成立時期その他を検証し、次にに「クシタマ」の成立時期その他を検証し、そして両者の関係を見ていかなければならないはずです。

記紀やその他の古文献・古典を用いず神社の伝承のみを利用して「クシミカタマ」・「クシタマ」の成立や、両者の関係を検証することができるでしょうか? 原田の論いはそれらの手続きはどこにもありません。そのあたりを明確にしてから次へ進んで欲しいものです。

●スサノオとニギハヤヒ●

原田は、ニギハヤヒをスサノオ神の第5子と考えています。これは「オオモノヌシ神=ニギハヤヒ」とする考え方に並ぶ原田の論の特徴です。

実は古事記には、オオモノヌシ神と、スサノオ神の子オオトシ神を同一神と見ることが可能な記述が1カ所だけ存在します。

古事記の出雲神話の段で、オオクニヌシ神の国造りのあと協力者としてオオモノヌシ神が登場します。そのオオモノヌシ神の事績の記述に続く形で、唐突にオオトシ神の系譜が書かれます。このため、オオモノヌシ神をオオトシ神と同一神というように受け取る研究者もいます。もっとも、それは一般的な見方ではありませんが。

これを知ってか知らずか、原田や原田説支持者は次のような妙な考えを持っている様子です。

 オオトシ神をオオモノヌシ神と考え
      ↓
 オオモノヌシ神をニギハヤヒと考え
      ↓
 ニギハヤヒをスサノオ神の子と考える

この三段論法の最後の「ニギハヤヒをスサノオ神の子と考える」、この結論を原田はどうしても導きたいという心情、または信条をお持ちのように見受けられます。これも原田が思い描く通りの論ということができるでしょう。

原田説的に、記紀以前の資料に「アマテル・クニテルヒコ・アメノホアカリ・クシタマ・ニギハヤヒ」の名があるというなら、記紀以降の資料である先代旧事本紀その他にも同様の名があります。そしてその名は、ニニギの名としてフルネーム的に扱われる「アメニギシ・クニニギシ・アマツヒタカヒコ・ホノニニギ」とたいへん似た構造になっています。近親関係にある神名や人名は似たような名になるケースが多々あります。

また、物部氏の始祖であるニギハヤヒは、「先代旧事本紀」など物部系の資料では天孫降臨の主役であるニニギの兄とされています。この系譜は物部氏にとって特に重要なものであるはずです。

これらのことや、「ニニギ」と「ニギハヤヒ」の二つの名の対応関係、勝速日に対する「ハヤヒ」という語の対応関係から、ニニギとニギハヤヒの関係は、正勝吾勝勝速日天忍穂耳(マサ・カ・ア・カツ・カチハヤヒ・アメノオシホミミ)の子であり兄弟関係にあると見る方がより整合性が高いでしょう。



この整合性を、記紀以前の資料に記されていないためあえて捨てるという選択は解せません。記紀以前の資料などというあやふやな情報から恣意的に導かれる結論より、記紀以降の資料から導かれる結論を支持する方が確かなのは当然ことでしょう。

なお、天火明という神は尾張氏の祖とされ、その場合はニギハヤヒとは混同されない「天照国照彦天火明」という名を使うことが多くあります。このことから「天照国照彦天火明櫛玉饒速日」はホアカリとニギハヤヒが合成された名であると考える研究者もいます。古代史研究上、重要な考え方であると思います。

さて、上記の古事記の記述や伊勢国風土記逸文による伊勢津彦に関する記述や、大神神社から勧請とと伝わる神社の祭神などを見ても、オオモノヌシ神という神格は出雲の神々により関係が深いように推測されます。

先述のように、原田の論は、祭祀氏族(この場合は三輪氏・物部氏・尾張氏など)による祭神の設定・変更などをほぼ無視しているわけです。スサノオ・オオクニヌシ・オオモノヌシの後裔氏族である三輪氏=出雲神族系氏族や、ニギハヤヒの後裔氏族である物部氏からの視点でみると、オオモノヌシ神の側からニギハヤヒに関係付ける必要性、またその逆の必要性はどこにも無いでしょう。

本稿筆者は、これまで述べてきたようにオオモノヌシ神をニギハヤヒと考える部分にどうしても賛同できないので、ニギハヤヒをスサノオ神の子とする考え方にもまったく賛同できません。二ギハヤヒがスサノオ神の子だというズバリそのものの文献的な資料(文字資料)、それも年代的に記紀以前のものと確定できる記述でも見つからない限り、矛盾の多い「ニギハヤヒをスサノオ神の子と考える」という結論を支持はできません。





大物主神は饒速日ではなく・・U
大物主神は饒速日ではなく・・V




以下は当サイト外のページですが、
大変参考になる内容なのでぜひご参照下さい。


異名同神説への疑問 神奈備さんのサイトから
異名同神説への疑問2 神奈備さんのサイトから



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