大物主神は饒速日ではなく・・V
私的「古代日本正史」批判

●記紀から●

例えばアマテラスやスサノオ、オオクニヌシといった神々の行為は、弥生時代のある時期に権力の中枢にいた人物の事跡を神話として伝えたものと考えられることがあります。

さらにニギハヤヒを実在した人物と仮定し、加えて、記紀を時系列的に見ることが可能とも仮定した場合、記紀や先代旧事本紀などどのような資料からも、ニギハヤヒは別の場所(おそらく高天原と呼ばれる)からヤマトの地へ侵入してきたと読み取れます。時系列的には、神武に先行する形で、同世代、またはせいぜい1〜2世代前というところでしょう。

対してオオモノヌシ神は、記紀においてはオオクニヌシ神との関係で記述されています。この場合の時間的な前後関係についても記紀の記述を参考にすれば、オオクニヌシ神は神武より数世代前と考えることができます。

となると神武が東征にてヤマト入りした時点、もう少しさかのぼりニギハヤヒがヤマト入りした時点で、すでにオオモノヌシ神は三輪山にて祭祀されていたことが強く推測されます。オオモノヌシ神はニギハヤヒとはまったく別の存在だったことが強く推測され、ニギハヤヒのごとき後来の人物よりも三輪山の神オオモノヌシの方が古いといことが読み取れるでしょう。

時系列的に記紀からみると以上のようになります。



●三輪から●

史書の中にオオモノヌシ神を見る場合、「御諸山の神」と呼ばれるケース、「大物主神」と呼ばれるケース、「大物主櫛甕玉命」と呼ばれるケースなど複数が知られています。

このうち「大物主櫛甕玉命」という神名は、大田田根子の後裔である三輪氏族が三輪山祭祀に関わるようになってから成立した名だと考えられています。それは6世紀以降とのことです(大物主神伝承論:阿部眞司著)。

「大物主」という名が成立する以前の原オオモノヌシ神とは、古代的に正式な名を持たないまたは単に「御諸山の神」と呼ばれており、そこに「大物主」という神名が付与された可能性がまず1つ目に考えられます。これは記紀に登場するオオクニヌシ神の眼前にその存在を表したオオモノヌシ神が、当初は名を名乗らなかったやりとりから読み取れることです。

可能性として考えるなら、先行して成立していた「大物主」という名に「櫛甕玉」という尊称が付加されたと考えることもできます。記紀での「大物主」という名に対し「出雲国造神賀詞」では「オオモノヌシ・クシミカタマの命」というように後半部分を付加した形になっていることが例としてあげられます。

伝えられる神社の祭神名が、その神社の創建当初からのものと考えられるのかどうか、ある時期に祭祀氏族の職能が祭祀する神の名に反映されたということも考えなければならないでしょう。

原田が参照した「大物主櫛甕玉命」という神名自体が、原田が「記紀以前の資料」として提示する時期的な問題に、三輪氏も関わって成立した可能性が考えられるわけです。

三輪氏はというと、河内地方の須恵器製造集団を統率する氏族、また、渡来系氏族を統括する氏族であったとの説もあり、その活動が712年以前に始まっていたことは確実です。712年以前に、三輪氏を構成する氏族の職能や、出雲と三輪の関係が「大物主櫛甕玉命」の名の成立に反映したかもしれないと、この推測が可能であるといえるでしょう。

三輪氏をはじめとする諸々の影響をまったく無視して、「大物主は櫛甕玉という名であり・・」などと考える原田の論は、かなり奇妙なものといえるでしょう。

●神話から●

同書「古代日本正史」をはじめとして、記紀神話や神社の祭神とされる神格を現実世界で活動する人間であると考え、その活動年代まで想定している論、その論を記述した書物ははそれなりに多くあります。本稿筆者も、その考え方自体には積極的な興味を持つところです。

けれどもアカデミズムを始めとする歴史の研究者のうち慎重な態度をとる人の多くは、記紀に書かれる内容(そこで活動する神々の事跡)を、記紀が成立した8世紀の知識人の記憶であると見ています。これは当然の態度でしょう。いくら人の歴史以前の神々の活動がそこに書かれているといっても、それはあくまで8世紀の人から見た過去の出来事です。記紀成立年代から近い過去のことならともかく、遠い時代の事象ほど史実である可能性が低くなるのはこれも当然のことです。

西暦712年以前の年代に、記紀に書かれる事象が実際に存在したわけではないということです。ましてや、記紀以前の資料などという不明瞭な神社の伝承から、どれほど正確に古代の史実が読み取れるでしょう。

一方、記紀をやみくもに信じるのも、正しい態度とは思えません。1例が「皇紀」という暦です。日本書紀の記述を基にし西暦より660年も古いこの暦を認めるということは、100歳を超え150歳に近い年齢まで生きた古代天皇が確実に実在したことを認めるということになります。皇紀を認めながら150歳に近い年齢まで生きた古代天皇を認めないという態度はあり得ません。

どのような可能性を考えるかは意見の別れるところでしょが、推測は推測であり原田説も推測ということの例外ではありません。推測の中で蓋然性の高い論が仮説として選ばれていくわけです。できることはあくまで推測であり、書店や図書館、またはネット上に並ぶ神代の出来事の研究を読む場合は、そのことに注意が必要かと思われます。

原田説のように次々と小規模な断定と恣意的拡大解釈を繰り返して論を進める態度は古代史研究において厳に慎むべきかと思います。



●歴史へ●

さて、原田常治の説「古代日本正史」をもとに由緒書きを作る神社まで存在するということを聞いた記憶があります。それは現在にたいへん近い時期の出来事だそうです。

記紀や風土記といった資料批判の進んでいる古典や守り伝えてきた伝承、学問的に検証された説を基にするわけではなく、現代の怪しげな説を基に由緒書きを作るのは、神社が歴史学とは違ったジャンルである宗教という世界に属する施設であるからできることなのでしょう。

原田の論の支持者の間から出てきている「神社伝承学」という妙な名前の方法論も、古代史研究に耐え得る方法であるかどうか疑問です。そのあたり、今後も関心を持って見させていただくつもりです。

本稿筆者の考えとしては、オオクニヌシ神が大国主神、スサノオ神がスサノオ神であるように、オオモノヌシ神は大物主神として、ことさらに他の神の名を持ってきて解釈する必要はないと思っています。

神武が侵入する以前のヤマトの地に力を持っていた勢力が祭祀していた先住民系の神であり、それは出雲とつながる要素も持ち、さらには太陽神の性格も有する「偉大な精霊王」というような存在が「御諸山のオオモノヌシ」ではなかったかと思っています。





大物主神は饒速日ではなく・・T
大物主神は饒速日ではなく・・U




以下は当サイト外のページですが、
大変参考になる内容なのでぜひご参照下さい。


異名同神説への疑問 神奈備さんのサイトから
異名同神説への疑問2 神奈備さんのサイトから



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