磯城縣主の系譜
磯城邑伝称地:奈良県生駒市上町


●エシキとトミビコ●

古事記・日本書紀の初代帝神武条に記述される、九州を発した神武(当初はサノという名)がヤマト入りして大王に即位した伝承を、一般的には神武東征といいます。古事記の内容と日本書紀の内容は大筋では非常に似ていますが、日本書紀の方がより詳細な記述になってます。

神武のたどった行程は、九州を発した神武が瀬戸内海を東進し、現在の大阪湾(河内湖)から紀伊半島を本州最南端まで大きく回、その後熊野から紀伊半島中央の山間部を北上して奈良盆地入りするものです。南より奈良盆地入りし、物部の祖とされるニギハヤヒの帰順を得て奈良盆地の旧ヤマト勢力を滅ぼした後、最終的に神武が定めた居所が畝傍橿原宮です。その時の神武の名がカムヤマトイワレビコ、また最初のハツクニシラススメラミコトとも呼ばれました。

畝傍橿原宮のある畝傍山やそれを含む大和三山、また磐余(イワレ)と呼ばれる地域、それらは奈良盆地の東南部に位置する古代史上重要な存在である神体山「三輪山」の西から南にかけて広がる平野部にあります。また文献の上の伝承だけではなく、考古学的に極めて重要視されている巻向遺跡も三輪山の西に位置します。

これらは後の式上郡・式下郡に含まれ、その両者および十市郡を合わせた地域が後の磯城郡とされました。本稿筆者が想定する「磯城」の地は磯城郡域にほぼ重なります。古事記・日本書紀(以下記紀)の伝承を見る限り、神武が東征の最終的な目的地としたのは東あるいは北東に三輪山を擁する(つまり三輪山の南西に位置する)磯城の地であったと読み取ることができます。

一方で、三輪山のオオモノヌシ神が神武以降の王権に祟りをなすという伝承が記紀に複数回記述されており、これに関連して、オオモノヌシ神は神武以前から祭祀されていたため侵入者である神武系の王権に祟ったという考え方があります。これは通説の域にまで高められている考え方ではありませんが、大筋の見方として賛同できるところです。そして奈良盆地の旧ヤマト勢力のうち、古来より三輪山の神を祭祀してきたのは磯城の地の首長であったと考えるのは自然なことでしょう。三輪山の神が「大物主神」という名で呼ばれていたと断定はできないながらも。

なお、三輪山のオオモノヌシ神が物部の祖とされるニギハヤヒであるという説を見かけることがあります。これは昭和50年代に表れた説で、本稿筆者はこの説を全く支持しません。

神武東征伝承によれば、神武に立ち向かった旧ヤマト勢力に、磯城一帯に勢力基盤を持つ豪族エシキ・オトシキ(紀では兄磯城・弟磯城、記では兄師木・弟師木)がおり磯城彦と呼ばれていました。兄・弟の記述は首領・副首領と見るべきかもしれません。磯城彦兄弟は、その名からしても磯城の地の首長であることに他ならないでしょう。

神武記に記述される忍坂の土雲八十建(ツチグモヤソタケル)、神武紀に記述される磯城の八十梟師(ヤソタケル)・国見岳の八十梟師らは、磯城の地を守る位置に布陣していた軍勢であると考えられ、その位置関係から見ても磯城彦兄弟の命令系統に入る、つまりは磯城彦兄弟の手勢であったことでしょう。後述するトミビコよりも磯城彦兄弟の方が大きな勢力であった様子です。そして八十タケルたちをまとめていた磯城彦兄弟の居所が三輪山麓にあったとしたら、そこが旧ヤマト勢力の首都的な場所であり、さらに宗教的な聖地であったと見ることができます。

磯城彦兄弟のうちエシキは、神武の使いであるヤタガラスに矢を射かけ八十タケルを率いるなどし、あくまで抗戦の態度をあきらめませんでしたが、戦いの末神武勢に滅ぼされます。オトシキは神武側へ帰順することで、論功行賞として神武から磯城縣主に任じられます。



神武東征伝承の中で考えるならば、エシキ同様、神武に立ち向かった旧ヤマト勢力の豪雄として名高いナガスネヒコ(トミビコ)は、奈良盆地北西部(現在の生駒市域)を本拠としたと考えられています。

トミビコの元には、トミビコの妹トミヤヒメ(ミカシヤヒメ)を娶っていたニギハヤヒが身を寄せていました。このニギハヤヒをして、大和の国の「国魂」であるかのように考える民俗学者もいました。また、神武東征時点でニギハヤヒを中心にした一大勢力があったと見られることもあります。仮にそうならば、ニギハヤヒについては、神武に敵対するにせよ同盟するにせよ、クマソタケル(景行記)・川上タケル(景行紀)やエミシアヤカス(蝦夷綾糟:敏達紀)のような「長:おさ」としての記述があっても良さそうなものです。

ですがそこに描かれるニギハヤヒの事績は、長として旧ヤマトの各部族をまとめ上げたわけではなく、八十タケルなどの手勢を率いていたわけでもなく、東征の最終的な局面で義兄トミビコを殺し神武側へと帰順するという行為をとります。これを現代の感覚で見ればトミビコを裏切ったように読み取れ、そこには卑小感すら覚えます。九州における出征時の神武がニギハヤヒの名を知っていることから、当初よりスパイのような役を負っていたとも考えられます。

いずれにせよ神武東征時点での奈良盆地における物部の勢力はニギハヤヒとその周囲のわずかの者たちのみと見られ、武力らしい武力は有していなかったと考えられます。その後、ニギハヤヒとその子ウマシマジの後裔は物部氏となり、大和朝廷で重きをなす氏族へ続きます。弱小の氏族が数世代を経て大豪族にのし上がることは、史実としての鎌倉執権北条氏などに見ることができます。
●「磯城邑伝称地」の碑の位置●
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神武に立ち向かった代表格は一般的にトミビコと見られていますが、祭政一致の古代にあって磯城彦兄弟は三輪山への祭祀を司り、トミビコは武力をもって西方(生駒山から見た瀬戸内海方向)へ備えていたという役割分担が考えられます。本稿筆者の想像として、磯城彦兄弟のうちエシキこそが神武以前の奈良盆地の旧ヤマト勢力の盟主だったのではないだろうかと考えています。

オトシキが神武側へ帰順し、ニギハヤヒも同様であったことから、オトシキの伝承とニギハヤヒの伝承は同一人物のものを2つに分けて記紀に記述されたと見られることがあり、この流れとしてエシキとトミビコが同一人物であったと考えられることもあります。本稿筆者としてはその考えを採ることはありません。



オトシキは、日本書紀にその名を黒速(クロハヤ)と記述されていますが、エシキについてその名は示されません。エシキは日本書紀に梟帥兄磯城と記載され、これは通常「タケルエシキ」と読まれます。クマソタケルやイズモタケルと同様、エシキもタケルの1人だったのでしょう。

神武東征伝承は、出雲の国譲りに次いで何世代か後に起こった旧ヤマト勢力の国譲りと見ることができます。基本的には史実と認められておらず、神武の実在も確認されてはいませんが、記述される場所の地形(特に河内湖)など具体性がある要素も含まれるため、史実の核が含まれると仮定しての論も多く見られます。本稿筆者も同様の立場を支持します。
●志貴御縣坐神社【MAP】

●欠史八代の后妃●

実在ではないと考えられる神武に続き、2代から9代までの8人の大王には事績が伝わらず、ために欠史八代と呼ばれその実在も認められていません。ですが、その系譜記事の中にもまた史実の核があったと見られることがあります。

もっとも、これらに関してアカデミズムの論考を見ると、必ずしも神武や欠史八代を無視しているわけではなく、系譜記事や后妃記事の分析もそれなりになされてはいます。が、例えば「〇〇天皇は稲の精霊を、△△天皇は農機具の霊を神格化したもの」というように初期の大王は実在の人間ではなかった、あるいは諸豪族の始祖を1本の系譜にまとめた、そのように考えられることが多々あります。

なお、在野の研究者の中には、記紀の系譜記事を無批判に鵜呑みにしすべての大王が実在であったかのように考える向きもありますが、これはいかにも短絡的でしょう。とはいえ、感情的になるべきではありませんが、せっかくの記紀の系譜記事を架空と考えて切り捨ててしまうのは「もったいない」とも感じられます。

そこで、実在ではないとされる欠史八代の系譜記事を見ていくと、ある興味深い一族につき当たります。神武東征時、神武側へ帰順したオトシキの後裔である磯城縣主の一族です。系譜記事から、欠史八代の何人かの大王に磯城縣主が后妃を出していたことが分かり、初期の大王家の外戚的な氏族として頭角を表したと読み取れます。

神武東征伝承の中で神武側に帰順したニギハヤヒの後裔は、物部氏として勢力を伸ばしていくことは良く知られたことです。諸説で磯城縣主が、その発祥の時点から物部系の氏族だとされることがあります。つまり、神武側に帰順したニギハヤヒと、エシキ・オトシキの磯城彦兄弟は同族になるということですが、果たしてそれはどうでしょうか。本稿筆者は磯城彦兄弟が物部系だったとは考えていません。

オトシキとニギハヤヒの関係は記紀や先代旧事本紀には記されてはいませんが、ニギハヤヒは天尊降臨とは違った降臨伝承を持つことから、旧ヤマトにとって外来の人物だったことが強く推測されます。外来のニギハヤヒと、おそらくはヤマト土着の磯城彦兄弟の一族が同族だったとは非常に考えにくく、当初の磯城縣主が物部系の氏族だということは考えられません。



欠史八代初期の磯城縣主の重要人物にハエ(紀では葉江・記では波延)が登場します。磯城縣主であるハエとオトシキの関係は、系譜記事などの表面上ではなにも語られていませんが、日本書紀でのオトシキの実名クロハヤの“ハヤ”と磯城縣主“ハエ”の音が似かよっている事から2人は同一人物ではないかと考えられることもあり、これは非常に面白い見方だと思います。

結論を出せないまでも2人を同族と見てまず問題はないでしょう。磯城縣主の職掌を同じくし活動時期も近接していることから、クロハヤの子がハエであるといった1親等または1世代程度の距離を認める推測が妥当なところかと思います。

磯城縣主は、上記したように欠史八代の大王に対する外戚のような立場の氏族だったと考えられます。そのうちでもハエは、とくに書紀一書に最も顕著に記されるように何代もの大王にわたって后妃を出していることから、磯城縣主家の当主であったことは非常に確度が高く、世襲名であった可能性も捨てきれません。いずれにしても磯城縣主家を代表する人物だったでしょう。ハエの系統の磯城縣主家こそが神武紀のオトシキに繋がる本宗家と考えます。これを本稿筆者は「弟磯城系磯城縣主」と仮称することにします。そして、弟磯城系磯城縣主が物部出身であるという理由はどこにも見られません。

磯城縣主の研究では、磯城縣主が女系をもって大王家と関わったと考えられることが多いようですが、縣主として男性の名が出てくることから、欠史八代の后妃記事を基に弟磯城系磯城縣主の男系の系譜を復元することも難しくは無いでしょうし、事実、書籍やネット上の記事では、磯城縣主の系譜を復元して考えたものが複数みられます。ですが、本稿全体としては磯城縣主と物部などの大まかな流れ考えることを試みており、系譜の復元は別の機会に譲ることにいたします。

ここで初代神武から欠史八代を含みさらにその次のハツクニシラススメラミコト10代崇神までの大王と后妃の関係を、記紀を基に書き出してみましょう。日本書紀には一書という形で何種かの異伝が掲載されており、古事記の記事も日本書紀を補完することができるものとして併記します。
●后妃関係図●
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ここから見ると、欠史八代の大王に后妃を送り出した氏族に磯城縣主・十市縣主・春日縣主が登場してくることになります。まず、この3カ所の縣の位置関係を見てみます。

「磯城」は三輪山麓、現在の奈良県桜井市域にあてられるのはまず間違いないところで、後の式上郡・式下郡を合わせた地域に重なるでしょう。三輪山頂から西南わずかの位置に志貴御縣坐神社があり、この一帯は、三輪山に対する祭祀という点では大変重要な地域だったでしょう。



「十市」は、現在の橿原市十市町にある十市御縣坐神社の一帯が十市縣であるかと考えられています。「春日」について、現在の三輪山近辺には春日の地名は残っていませんが、奈良県田原本町多の多神社が古い時代に春日神社と呼ばれていて、多神社の一帯がその昔は春日縣だったとされています。その春日縣が十市縣に変わったことが「多神宮注進状」に記されます(岩波文庫日本書紀補注)。また、「十市縣主系図」でも5代孝昭期(実年代は不明)に春日縣が十市縣に改められたとされており、十市縣と春日縣は同じ地域をあらわすと見て良い様子です。多神社と十市御縣坐神社の距離は直線で約2qなので徒歩での距離は3q前後となり、2つの神社を含む区域は1つの行政生活区域であったと考えて問題無いでしょう。後の十市郡に重なると判断できます。
●十市縣主系図●
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●十市縣主系図●

上記系図は、平安末期に成立していたとされる十市縣主系図の引用です。これは「和州五郡神社記」所収の系図が大和志料に掲載されたもので、国立国会図書館近代デジタルライブラリーで参照が可能です。大和志料は事項をご参照下さい。

【Link:大和志料 108/359】

ここでは2代綏靖紀第2一書に記載のある春日縣主大日諸が十市縣主の直系の祖先となっており、3代安寧紀第2一書の大間宿禰が大日諸の子とされています。大日諸には別名の「武研貴彦友北(タケ・タキシヒコ・トモキタ)命」がありますが、旧事紀に3代安寧の第4子「研貴彦友背(タキシヒコ・トモセ)命」とありこれは混入誤記かと思われます。4代懿徳紀第1一書には、5代考昭の同母弟に武石彦奇友背(タケシヒコ・アヤシ・トモセ)命が記載されますが、系図のこの部分に無理につじつまを合わせるなら大王の子が臣籍降下して養子縁組がなされたことになります。しかしながら、それは非常に無理があることです。十市縣主系図が記紀や旧事紀よりも新しい成立であることを考えると、大日諸の別名の“武研貴彦友北命”は混入誤記の可能性がかなり高くなります。

また、記紀には登場しない春日日子、豊秋狭太彦(5代孝昭紀第2一書に記載のある豊秋狭太媛の関係者か?)を登場させているほか、大間宿禰・春日日子・豊秋狭太彦を春日縣主と設定しています。倭国早山香姫は7代孝霊紀第2一書の春日千乳早山香媛に対応します。大日彦とは記紀での大目のことでしょう。大日彦の子の倭○彦は“ヤマトハエヒコ”と読みます。建飯勝命の系については後述します。

十市縣主系図はその成立時期もさることながら、十市縣主系図そのものが偽書ともいわれています。記載される春日縣主の系譜は日本書紀の第2一書を中心に事代主系の伝承を重ねて構成したように見え、それは欠史八代の系譜に世代数を整合させたとも考えられます。つまり、記紀に記載される磯城・十市とはっきり記された者および大王の系譜に連なる者の名を除き、残った人名を春日縣主として構成し直した系図とも考えられます。記紀に詳しい者ならば現代人でも可能な情報操作であるため、春日縣主の系譜については今後の研究を待ちたいところです。

ただ、1つ付け加えるなら、春日縣主から十市縣主へと繋がる系譜の出自をコトシロヌシ神に求めたところは非常に興味を引く部分です。鴨王は旧事紀によってその別名が天日方命(天日方奇日方命)であることが分かり、さらに天日方命の子に大日諸を設定したことにより大日諸命がコトシロヌシ神の子孫(孫)であることになります。この系図が、十市縣主の出自を“出雲神族”に求めていることが表れています。

十市縣主系図に磯城縣主は登場しないため、磯城縣主と春日縣主の直接の関係は分かりません。考えられる1つの可能性は、春日縣主は磯城縣主と全く別系統の一族であり、春日縣主の系譜に記載される人物郡は磯城縣主とは全く関係ないということです。しかしながらそう判断しきってしまうのも早計でしょう。



磯城縣と春日縣は隣り合って存在しているため、それぞれの支配者が密接な関係にあったことが推測されます。次のいくつかのキーワードを基に、別な可能性を考えてみましょう。

■日本書紀本文では、初代神武および2代綏靖の各大王に、コトシロヌシ神が后を送り出しています。コトシロヌシ神のフルネームは「鴨都味歯八重事代主」と呼ばれ、そのうちの“八重”が“ハエ”と読める可能性が指摘されていることが参考になります(鴨資料05大国主と三輪の周辺:大三元氏のサイトから)。

■また、「鴨都味歯八重事代主」を上記とは違う区切り方で見ると、カモツミ・ハヤエ・コトシロヌシとなり、この“ハヤエ”はやはり“ハエ”に近似した音となります。このように、名前から考えると、コトシロヌシ神と磯城縣主ハエの間には関連性を読み取ることができます。

■2代綏靖の和風諡号が「カム“ヌナ”カワミミ」であり、磯城縣主の娘カワマタヒメ(記・第1一書)・春日縣主大日諸の娘糸織媛(第2一書)を后とします。

■3代安寧の和風諡号が「シキツヒコタマテミ」であり、師木縣主波延の娘阿久斗比売(記)および、事代主神孫鴨王の娘“ヌナ”ソコナカツヒメ(“ヌナ”ソヒメ:紀本文)を后とします。また、日本書紀本文で“事代主神孫鴨王”と記されているように、事代主神と鴨王の間に1人(1代)の人物の存在が推定されます。

■3代安寧の子に「シキツヒコ」が存在します。上記で十市縣主系図への混入誤記と見た旧事紀の記載、「研貴彦友背命」が3代安寧の第4子という記事は、あるいは「シキツヒコ」に関係する意味があるかもしれません。3代安寧から磯城縣主が出たという認識が混入誤記の原因のようにも思えます。

■5代孝昭が磯城縣主葉江の娘“ヌナ”キツヒメを后とします(第2一書)。

十市縣主系図の中に構成される春日縣主の系譜には架空の人物が含まれる可能性が高いでしょうが、考えられる別な可能性とは、その中に磯城縣主が組み込まれているかと見ることです。推測を続けることが許されるなら、春日縣主の系譜の鴨王(「鴨王」も「鴨主」も資料を総合することで事代主神の別名の一つと考えられます)の位置に磯城縣主ハエを置いても良いのではないだろうか、大日諸や大間宿禰は磯城縣主を名乗っていなかったか、などと考えています。

7代孝霊に后を出したと日本書紀に書かれる磯城縣主大目は古事記で十市縣主祖大目とされており、磯城縣主と十市縣主は同族と考えられています。記紀を見ても、十市縣主系図の中の春日縣主の系譜を見ても、磯城縣主大目なる人物が、磯城縣主・十市縣主・春日縣主のキーポイントになりそうなことが強く推測されます。

大雑把にまとめます。欠史八代の当初には磯城縣と春日縣の2件の縣があり、春日縣は後に十市縣に変わったとされます。これが記載される十市縣主系図において「十市」と「春日」の地勢的繋がりが読み取れ、そこから十市縣と春日縣の支配者は同族もしくは非常に近接した一族であろうと推測されます。さらに、記紀における磯城縣主大目と十市縣主祖大目の件から「磯城」と「十市」の人的繋がりが読み取れます。

磯城・十市・春日の3つの縣主は同族と見て良い可能性が積極的に考えられます。



この3つの縣主をひとまとめにして、上記の仮称「弟磯城系磯城縣主」と呼ぶことができるでしょう。欠史八代の后妃のかなりの割合の者がこの弟磯城系磯城縣主出身であることになります。

繰り返しますが、本稿は磯城縣主の系譜の復元を目的とするものではありません。欠史八代の後期になって十市縣主が出現し磯城縣主の名は消えていく、このことに関連づけて磯城縣主と物部の大きな流れを考えようと思っています。
●十市御縣坐神社【MAP】

●磯城縣主ハエ●

磯城縣主ハエは、欠史八代の系譜上では何代もの大王に后を送り出しています。このことから「ハエ」という名前自体が世襲名との見方も出ています。これは記紀で、神武および欠史八代の大王はすべて直系相続の形をとっているからこそ出てきた見方です。「ハエ」という名前が世襲名かもしれないう可能性は棚上げして、これを次のように見直すこともできます。

前述のように神武および欠史八代の大王はすべて直系相続ですが、崇神以降の大王(天皇)の系譜は兄弟間での相続が多く見られるため、欠史八代の相続形態は天皇系譜のうちでも大変な違和感を持ちます。ために、これが欠史八代の大王が実在しない理由の一つにされることがありますが、例えば安本美典氏から次のような反論が出されています。

古代の人達の名は親子兄弟で似通ったものになっていて、それは大王(天皇)の和風諡号にも当てはめることができるとされています。

 ■7代孝霊:オオヤマト・ネコ・ヒコ・フトニ
 ■8代孝元:オオヤマト・ネコ・ヒコ・クニクル
 ■9代開化:ワカヤマト・ネコ・ヒコ・オオビビ



安本氏によれば、以上3人の大王は名前の類似という観点からすれば兄弟相続であった可能性があるとのことです。そして安本氏方式を応用するとほかにも兄弟と考えられる大王がいます。

 ■3代安寧:  シキツ・ヒコ・タマテミ
 ■4代懿徳:オオヤマト・ヒコ・スキトモ
 ■5代孝昭:  ミマツ・ヒコ・カエシネ

以上3人の和風諡号の前半部に注目してみます。4代懿徳の名の前半「オオヤマト」は普通には美称とされていますが、そう考えずオオヤマトとヒコの間の部分で区切ってみるとどうでしょう。孝昭に冠される“ミマ”というような地名があったかどうかはわかりませんんが、それらの名前は“地名(?)+ヒコ+実名”という形に並んでいるように見え、この3人の和風諡号もやはり似通った構造になっていると思います。とすると、3代安寧・4代懿徳・5代孝昭の3人の大王も兄弟であった可能性が考えられるのではないでしょうか。

さらに6代孝安について。6代孝安の和風諡号はオオヤマトタラシヒコクニオシヒトです。こちらは「タラシ」を含むがために、後の「タラシ」の号を持つ大王や天皇を基に作られた和風諡号であるとされますが、6代孝安の「タラシ」を無視するとどうでしょう。

 ■6代孝安 オオヤマト(タラシ)・ヒコ・クニオシヒト

となり、3代安寧・4代懿徳・5代孝昭の3人の大王の和風諡号と非常に似た構造になり、6代孝安も兄弟を構成していたように見えます。このように兄弟間での相続例が増えるとなると、欠史八代の相続形態は崇神以降の相続形態に近い形になり、系譜上の違和感がある程度は解消することになります。

以上のことから、初代神武以降9代開化に至る大王の系譜は9人の大王が出ているものの、世代としては9世代ではなく4世代くらい(ひょっとしたらそれ以下)になる可能性があります。そして、5世代目に10代崇神が続きます。

まとめると次の“表1”になります。

●表1●


次に、磯城縣主ハエが娘を后として送り出した大王をあげてみます。

■3代安寧に・・・
   記   師木縣主波延の娘 阿久斗比売
   第1一書 磯城縣主葉江の娘 川津媛

■4代懿徳に・・・
   第1一書 磯城縣主葉江の男弟猪手の娘 泉媛

■5代孝昭に・・・
   第1一書 磯城縣主葉江の娘 渟名城津媛

■6代孝安に・・・
   第1一書 磯城縣主葉江の娘 長媛

磯城縣主ハエが妃を送り出した4人の大王は、安本氏方式の見方をすることで系譜の3世代目にまとまります。ということは、磯城縣主葉江ハエは4人の大王の親の世代(2代綏靖の世代)に1人いれば良いことになり、ハエの名が世襲名であった可能性は下がります。同時に、磯城縣主葉江ハエは弟磯城クロハヤの子である可能性がやや高まります。また、初代神武から10代崇神までの10人の大王は10世代ではなく5世代程の世代数であったと見る方がより自然であるといえます。

以上を表1に加えて“表2”としてまとめます。
●表2●

●物部●

ここで、もう一つ気になる人物群を、その活動時期の記載のある大王と関連させて拾い出してみます。

■5代孝昭の時期に記載
   記 尾張連祖奥津余曾(の妹 余曾多本毘娘)
   紀 尾張連祖瀛津世襲(の娘 世襲足媛)

■8代孝元の時期に記載
   記 穂積臣等祖内色許男(の妹 内色許売)
   紀 穂積臣遠祖欝色雄(の妹 欝色謎)

■9代開化の時期に記載
   記 伊香色雄(の妹 伊迦賀色許)
   紀 物部氏遠祖大綜麻杵(の娘 伊香色謎)

気になるとお伝えしたのは“尾張”および“物部”です。さらににもう一つ付け加えれば、10代崇神は物部の女性を母とし、后の御間城姫(紀)・御真津比売(記)もまた物部系の血統になります。

穂積臣は、ニギハヤヒの子孫伊香賀色雄の子大水口宿禰から分かれたと伝わる物部の支族です。尾張氏は、新撰姓氏録では“神別天孫”に分類され、天火明を祖とします。対して物部は“神別天神”、ニギハヤヒおよびその子ウマシマジが祖です。両者は別系統の氏族であり、また、本稿で考えている時期は崇神以前の時代で、正確に物部氏・尾張氏としては確立していない、いわば“前物部”“前尾張”の時期です。

旧事紀によれば、11代垂仁の時期に大新河(オオニイカワ)や十市根(トオチネ)が“物部連公(もののべのむらじのきみ)”の姓を賜っれたとあり、また、15代応神の時期に尾綱根が“尾治連(おわりのむらじ)”の姓を賜ったとあります。両者がそれまでどのような氏を名乗っていたか残念ながら本稿筆者にはわかりません。

ところで、旧事紀などでは天火明はニギハヤヒと同一神とされていて、尾張氏と物部氏は近い関係にあったか、またはそうありたいという意思が、特に物部側から尾張側に向けて働いていたと考えられそうです。国造本紀では、尾張氏系の国造の多くを物部側が取り込んでいる指摘が専門家よりなされていることからも同様に考えられます。物部氏は、“天神”ではなく尾張氏の持つ“天孫”というステイタスが欲しかったのでしょうか。

ともあれ、欠史八代の終盤数人の大王に対しては、物部系の后が出ていることになります。



この時期の物部の動向について旧事紀を参照して見ると、天孫本紀に次のような記事があります。ニギハヤヒから7代目にあたる伊香色雄が“倭志紀彦の女真鳥姫を妾と為して一男を生む”とあり、真鳥姫の子であるかは分かりませんが8代目の建新川が倭志紀縣主等の祖とされています。また、建新川の兄十市根の子の物部印岐美(モノノベノイキミ:建新川から見て甥にあたる)も志紀縣主の祖であるとされています。倭志紀縣主とは磯城縣主のことに他ならず、ここに弟磯城系とは異なる物部系の磯城縣主が出現することになります。これが682年(天武12年)10月に連姓を下賜された物部氏族の磯城縣主であり、ニギハヤヒの孫日子湯支(ヒコユキ)を祖とする“大和神別天神”の志貴連なのでしょう。

実は旧事紀には、伊香色雄以前にも、ニギハヤヒから4代目にあたる出雲醜(イズモシコオ)が“倭志紀彦の妹真鳥姫を妻と為して三児を生む”という内容の記事がありますが、これについては重複または誤記(姓氏家系総覧:秋田書店)、あるいは“伊香色雄の妾”と“出雲醜の妻”は真鳥姫という同名別人とされています。ですが、何らかの誤記であったとしても、物部から倭志紀彦に向けての複数回のアプローチがあった痕跡が見て取れそうです。

そして、2件のケースの倭志紀彦どちらもが弟磯城系磯城縣主であり、オトシキから続く磯城縣主の本宗家当主だったのでしょう。そのうちでも、伊香色雄に娘を差し出した倭志紀彦とは、時期的にいうと十市縣主五十坂彦もしくは十市縣主大目だったのではないかと推測されます。ここでもまた十市縣主大目がキーになることが考えられます。

これは本稿筆者の推測ですが、物部から倭志紀彦に向けてのアプローチとは、物部による磯城縣主の職掌の簒奪や強制禅譲であったかもしれません。それは磯城縣主が持っていた三輪山への祭祀権を物部が奪おうとした内容だったのかもしれません。

弟磯城系磯城縣主の本拠はどこだったのでしょう。それは神武がヤマトへ侵入した時のエシキの居所と同じ場所だったのではないでしょうか。現在の志貴御縣坐神社、あるいは大神神社もしくはその近辺、すなわち三輪山麓において三輪山への祭祀を執り行っていた場所が磯城縣の中心地だったことでしょう。対して十市縣または春日縣の中心地を推定すれば、多神社や十市御縣坐神社の位置が参考になりますが、こちらは間違っても三輪山麓とはいえません。磯城縣と十市縣の地勢的特徴の大きな違いの1つが三輪山からの距離ということです。そして磯城縣主と十市縣主(春日縣主)が同族であるとしても、名前の違いは支配地域の違いを表わします。

物部系磯城縣主の出現に伴い、元の弟磯城系磯城縣主“倭志紀彦”(大目の可能性が高い)は三輪山から離れた十市縣に本拠を移しました。弟磯城系磯城縣を母体としたであろう磯城縣主は十市縣主へと変わり、おそらくは三輪山への祭祀権を失って三輪山を擁する磯城縣から離れたのでしょう。その後の弟磯城系磯城縣主は大王に后を出すこともなくなり、十市氏から中原氏へと系を伝えていくことになります。

建新川を祖とする倭志紀縣主が物部系の磯城縣主ということになり、磯城縣主の職掌は弟磯城系から物部系に移ります。この件および十市縣主系図に物部系の人物が一切記載されないことを拠り所にし、エシキ・オトシキの兄弟が本来は物部系ではなかったと考えることができます。

建新川の活動時期はハツクニシラシシミマキノスメラミコト、物部に絡まれた10代崇神の、また11代景行の治世です。后妃伝承に絡め物部に視点を当てて考えれば、9代開化と10代崇神の間に“王朝交代説”のような王統断絶があったとする必要は無いかと思います。王統断絶とはいかないまでももし何かがあったとすれば、それは7代孝霊、あるいは8代考元の世代あたりではないでしょうか。磯城縣主大目と十市縣主祖大目の名が登場し、物部系の后が出る時期です。
●多神社【MAP】

●オオタタネコ●

古事記と日本書紀の欠史八代初期の大王の后妃の系譜を比べて見ると、古事記でオオモノヌシ神の系統とされている部分が日本書紀(一書を含む)ではそっくりコトシロヌシ神の系統に入れ替わっています。

コトシロヌシ神は、記紀の出雲に関する神話で大国主神の子とされており、三輪のオオモノヌシ神は出雲のオオクニヌシ神の別名の1つとされています。とすればオオモノヌシ神から見た場合でもコトシロヌシ神は近親であると見て良いことになります。

とはいえ、日本書紀神武条の后妃記事には大物主神という名そのものが記載されていないということは、女系であってもオオモノヌシ神の血統が大王家に入ったことを否定している状態です。正史とされる日本書紀は、王権側にとって古事記よりも重要な文献でしょうから、記紀の説話でのオオモノヌシ神の大きな存在感を考え合わせると、日本書紀のオオモノヌシ神の血統否定は特徴的なことといえるでしょう。



そして、古事記でオオモノヌシ神の血統を伝える男系の者は、10代崇神記のオオタタネコまで登場しないことになっています。日本書紀でのコトシロヌシ神の血統についても同様に数代を越える記述はありません。このように、欠史八代の期間については、オオモノヌシ神・コトシロヌシ神に続く男系の者の活動は隠されているか無視されているように見える特徴があります。

10代崇神の治世に三輪氏の祖オオタタネコが登場します。オオタタネコがいたのは、記では河内の国の美努村、紀では茅渟縣陶邑。供に現在の大阪府堺市東南部と考えられていて、堺市上之に陶荒田神社があり、周辺には「陶器」「見野山」の地名が残ります。

ここで古事記のオオタタタネコの言う系譜を見ると面白いことがわかります。古事記の中でオオタタネコは自らの出自に関する発言として、“オオモノヌシ―→クシミカタ―→イイカタスミ―→タケミカヅチ―→オオタタネコ”という系譜を述べています(この場合のタケミカヅチはイザナギの子とは違う人物として考えます)。オオタタネコから4世代を遡った時期にオオモノヌシ神が位置するわけで、これを時系列にしたがって「●磯城縣主ハエ●」の項目で考えた大王の世代数に対応させ表1にまとめて“表3”とします。
●表3●

オオタタネコの祖のオオモノヌシ神を人間と見ると、年齢や寿命という点からしてその活動時期が神武の活動時期に近接し、重なってくると考えてもおかしくないでしょう。そうすると、崇神記のオオタタネコの言うクシミカタの父のオオモノヌシ神は、神武記で神武の后となったイスケヨリヒメの父親のオオモノヌシ神と同一人物か、または一親等(親子)程度の距離しか離れていなかったことでしょう。

もう1つ参考までに、「三輪叢書」から三輪氏の系図である“三輪高宮家系譜”の最初の部分を引用してみます(P581)。これも国会図書館近代デジタルライブラリーをご参照下さい。

【Link:三輪叢書 312/470】

●三輪高宮家系譜●
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上記の系譜はおそらく先代旧事本紀が基になっているのでしょうが、それが史実として信用できるのか、または記紀その他の系譜が全く信用できないのか本稿筆者にはわかりません。が、ここからは、オオモノヌシの名もコトシロヌシの名も何世代かにわたる世襲の名前であったと読み取れます。2代目3代目には大物主神の襲名があり、3代目4代目には事代主神の襲名があります。

系譜上のどこかに、崇神記のオオタタネコの言うクシミカタの父のオオモノヌシ神を対応させることが可能でしょう。また、複数のコトシロヌシ神を置くことで鴨王がコトシロヌシ神の孫と見ることもできます。そして、先に見た日本書紀の“事代主神孫鴨王”という記述、コトシロヌシ神と鴨王の間にあったと推定される1世代にエシキやオトシキクロハヤの存在を想定することも可能性の1つとしてあげられます。

しかしながら、オオタタネコの言うタケミカヅチに似た名前が複数記載されるなど世代数の引き延ばしの可能性も見られ、古事記にあるオオタタネコ自らの系譜に正確に対応させられるわけでありません。天日方命(鴨王・鴨主)から建飯勝命に繋がる部分は十市縣主系図に対応していますが、十市縣主系図と旧事紀(800年代前半成立)の成立年代を考えると、一方が他方を基にしたことも十分あり得ます。とはいえ、オオタタネコが弟磯城系磯城縣主と、元をただせば同族であったかと推測を立てることはもちろん可能です。

●推測●

以下、妄想的推測です。

九州からヤマトへ入った神武とエシキ・オトシキクロハヤの活動時期は完全に重なり、それ以前にはシキヒコの系が三輪山祭祀に係わっていた可能性が考えられます。記紀でオオタタネコの祖とされるオオモノヌシやコトシロヌシ、十市縣主系図のコトシロヌシ・鴨王といった面々もその活動時期は重なるでしょう。記録される彼らの名は、三輪山祭祀を司っていた一族の人物を本名ではない呼び名で呼んだのかもしれません。

神武侵入以前のヤマトではエシキ・オトシキが三輪の祭祀王だったのでしょう。彼らはいわゆる「出雲系」の範疇に含まれる勢力だったかもしれません。三輪と出雲の係わりという意味では大国主神と大物主神との関係は深く、さらに古事記の出雲神話の中には大物主神出現以前に大国主神が倭に行こうとする一節があります。

神武東征において神武が目指したのは三輪山麓であり、その地を治めていたであろうエシキは滅ぼされました。その後、初代神武以降欠史八代と呼ばれる王権内において、オトシキクロハヤからハエへ繋がる系が磯城縣主の宗主となっていたのでしょう。欠史八代の時期の大王権力は外来であるがために安定しておらず、政治的には大王家が政権を握ったものの、祭祀面で在地の土豪を懐柔して取り込む必要があったのでしょう。ために三輪山への祭祀権そのものは磯城縣主が掌握していたのでしょう。

10代崇神が出る少し前の世代、欠史八代の終盤において物部が台頭し磯城縣主の地位および職掌の簒奪をはかったのでしょう。それは物部も三輪山への祭祀権を欲していたからに他ならないでしょう。祭政一致の古代にあって「祭」の部分を押さえることで、また大王の外戚になることで政権に対し大きな発言力を持つことを意図していたのかもしれません。ニギハヤヒの時点で弱小だった物部の勢力は、数代を経て徐々に大きくなってきていました。



けれど、歴史に名を残さない大多数の人たち、いわゆる“民衆”は、それまで慣れ親しんできた三輪山への祭祀を物部が司ろうとすることを承服できなかったのかもしれません。在地土豪の系である弟磯城系磯城縣主が三輪山の祭祀を司っているうちはかろうじて安定を保っていたものの、物部が三輪山信仰を司る直前の段階で民衆の不安不平不満が表面化したのでしょう。後にいう強訴や一揆のような形で。

10代崇神の治世に起こる疫病の流行や住民の反乱・流亡、これらの騒動を抑えるため、崇神はオオタタネコを探し出し彼に三輪山への祭祀を任せるしかなかったわけです。ということは、その騒動の背後には三輪山信仰に係わる何かがあったと推測されます。「疫病の流行」をはじめとしてオオモノヌシ神が祟るという伝承はいくつもあり、「三輪山のオオモノヌシ神は大和王権以前の神であり、外来の王権に祟りをなす」、歴史研究者からそういう見方がなされることが多々あります。疫病の流行や祟りの実体とは、実は以上のような“民衆の不安不平不満の表面化”だったのかもしれません。

オオタタネコが河内の国にいたというのは、オオモノヌシ神の血統を伝えるために大王家のお膝元となり果てた旧ヤマト奈良盆地から離れていたからかもしれません。これには上記で後述するとした建飯勝命の件が関係します。

十市縣主系図の建飯勝命に繋がる建瓶槌命の部分には「大坂長柄首」の記載があります。長柄首はコトシロヌシ神の後裔氏族とされ、現在の奈良県御所市や大阪府八尾市を長柄首が拠点にしたと考えられています。オオタタネコの祖に当たる建飯勝命・建瓶槌命の時点で、三輪山や磯城の地、旧ヤマトを離れ、エシキやオトシキとは別の系統として、オオモノヌシ神またはコトシロヌシ神の血統を伝えたのではないでしょうか。旧ヤマトを離れたのは神武東征の時だったでしょう。

そしてオオタタネコがヤマト入りし三輪山への祭主となるほぼ同時期、物部は「磯城縣主」にはなったものの、三輪山の祭祀の補助的な役割しか与えられなかった様子です(記紀にイカガシコオの記述があります)。物部が三輪山への祭主となることはついにかなわなかったのでしょう。

ただし、祭主となるその役は、弟磯城系磯城縣主の後裔である十市縣主にも与えられませんでした。それをすれば物部の拒否権が発動され別な騒動が起こる可能性があったからでしょう。そして、2つの磯城縣主、弟磯城系とも物部系とも違う流れのオオモノヌシ神の血統としてのオオタタネコが求められたということなのでしょう。磯城縣主という職掌はともかくとして、祭祀権そのものはオオタタネコが引き継ぎその系は三輪氏として王権の中で成功していったと見えます。




本稿は、あくまで欠史八代の系譜から見た試案であって、本稿筆者はこれが真実だなどとはいいません。しかし系譜から見るだけでもそこに何らかの事跡があった可能性があること、また、そこには史実の核が含まれていた可能性すらあると判断できるでしょう。





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