素盞鳴神社

奈良県桜井市江包

祭 神

素盞鳴命


当社素盞嗚神社はかつて牛頭天王社(牛頭天皇社も同じ)と呼ばれていました。当社のように牛頭天王社がスサノオ系の神社に名を変えられたのは、その多くが明治期の神仏分離令の時期となります。

当社の発祥に関して、由緒書きに興味深い内容があり、その要旨を抜粋します。



【西暦808年(大同3年)の暮れに付近一帯に大雪が積もりました。年があけ一時天気が良くなり雪が溶け始めました。また正月7日には大雨が降り、三輪山から鉄砲水が出て、山谷を崩す洪水となりました。三輪明神の元に牛頭天皇の小宮がありましたが、この大水で流されてしまいました。村の人々が流れてくる御弊を発見し、大西村の善光院という山伏の祈りや、江包村観音寺の大光院という僧の助言により、江包村の未申(南西)に小宮を造って疫病よけの守護としてお祀りすることになりました。このことを伝え聞いた三輪の神主は、疫病よけの霊神は取り戻さなければならないと、書面をもって申し込んで来ましたが、この牛頭天皇は動くことを希望されませんでした。やむなく三輪の神主は禄供御前料として十二石を下されることとなりました。】

鎮座の次第は以上のようなものです。一種の洪水伝説とも見えますが、奈良県内の河川は古代には今よりも水量が豊かで水運が栄え、洪水も度々起こったと考えられています。当社は初瀬川のほとりに建ち、初瀬川は三輪山のそばをかすめるので、由緒書きのような創建伝承が史実を基にしているとしても不思議ではありません。ただし、由緒書きに書かれる時期に洪水があったかどうかは何ともいえませんが。

では、9世紀初頭の三輪に牛頭天王祭祀があったのでしょうか。牛頭天王信仰すなわち祇園信仰は、8世紀の吉備真備によって日本に将来された陰陽道に端を発するもので平安期以降に隆盛を見た疫病よけの信仰です。そのことと由緒書きとに整合がとれるかどうかの見解を示す資料は残念ながら未見です。

なお、大神神社境内末社の天皇社(現祭神は御真木入日子印恵命)は、過去には牛頭天王社であった可能性があります。また、当社から初瀬川をさかのぼった三輪山の西南部にも素盞嗚神社【MAP】、大神神社境外末社八坂神社があり【MAP】、これらの神社はいずれももかつては牛頭天王社でした。ともに初瀬川に近く、その位置関係が興味深く感じられます。



大神神社境内の三輪山平等寺は、大神神社にあった神仏習合の信仰を色濃く残す寺院です。平等寺はその創建を聖徳太子に求め、さらに別件で、聖徳太子は牛頭天王を祭祀したとの伝承もあります(飽波神社)

これらの事象から時代を特定できるわけではありませんが、三輪にも牛頭天王信仰があった可能性は高いでしょう。推測でしかありませんが、当社江包の素盞嗚神社は何らかの形で大神神社に関わる神社だったのかもしれません。

由緒書きを参照すると、御弊が流れ着いた村の人たちも三輪の神主も、牛頭天王の祭祀を大切にしようとしたことが分かります。この点は微笑ましいことですね。
当社素盞嗚神社には「綱掛祭り」という興味深いお祭りが伝えられています。
雄綱雌綱を合わせると1トンを超える重量になる巨大な綱を社頭に掲げる祭りで、
国の重要無形民俗文化財に指定されています。
綱の終端は川向こうの木まで伸ばされ、その長さは100m以上になります。

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