横文字に弱い
治多 一子
A「キショク悪いたらない。私、シャンプーで歯みがいたんよ」
B「そんなのまだましよ。私はくつ墨(白)で歯みがいたのよ。もうホンマに頭に来るわ」
友人の二人はカッカしている。よく聞くと両人とも歯みがきとよく似たチューブだったので、同じ場所においてあったから、つい間違えて使用してしまったのである。
B「息子が、チューブにちゃんと書いてあるのにと言うけど、英語なんか読めますかい。日本語で、はっきり書いてくれればよいのに」
全くBのいう通りである。このごろはやたらと横文字が多い。何もかもが、外国へ行くわけでもないのに、メイド・イン・ジャパンと書かれてある。
戦争中奈良市のプラス町という町名が敵国語だから変えたとか、私達になじみのピタゴラスの定理が、やはり同じ理由で、三平方の定理になったとか。くつ墨で歯をみがいた友人は、戦争中で英語を全然習わなかったから、皆目出来ないのだと怒っている。
戦争当時の国の文教政策(?)のため、横文字になじめないと、こぼしている友人が実に多い。歯みがき談議を聞いているうち、二、三年前に聞いた英文学者の言葉を思い出す。
その先生のお兄様が、学徒で戦場におもむかれる折、先生に向かって、
「××よ、こんな時代だからこそ語学を一生けんめい勉強するんだよ」
としみじみおっしゃったそうである。先生は戦地へ行かれたお兄様のいいつけを守って毎日かかさず何時間も英語を勉強したとおっしゃった。
そのお兄様から届いた便りには--軍隊での検閲がきびしく、英語を勉強せよなんて到底書ける時代ではなかったから--英語を勉強しているかという意味で、〝その後英子さんは元気ですか〟と何時もお書きになっていたとのこと。
二十歳の若さで、あの時代に学問のために語学の必要を信念をもっておっしゃった先生のお兄様を実に優れた立派な人であると感心した。そのお兄様は、学業半ばで戦死なさったとか。誠に惜しく悲しい事である。
昭和51年(1976年)7月5日 月曜日
奈良新聞のコラム「遠雷」に掲載(第2回)
随筆集「遠雷」第2編
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