遠雷(第3編)

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持ち出したもの

治多 一子

 久しぶりに先輩のNさんを訪ねた。丁度先客があって私も一緒に仲間入りして、美しいあじさいの花を眺めてお茶をいただいた。話は先日の××町の火事にうつっていた。
 「A君の隣家が全焼したのよ」
 「恐ろしかったでしょうね」
 「A君たら、自動車のキイだけもって逃げたのですって。枕一つだけ持って飛び出した人もあったってことよ」
 同じ職場で働いていた若者の事らしい。A君は日頃から何時もキイを持って出る習慣が身についていたのであろう。
 火事で女の人がタンスを持ち出したとか、また、長靴一足だけ持って慌てて飛び出した人もあると聞く。かつて空襲の折、念持仏(三〇センチ位の)を持ち出すつもりであったのが、気がついたら猫を抱いていたという話も聞いた。火事に遭遇したとき、思いもよらぬ大力が出たり、あるいは全くウロがきてしまって、とんでもない物を持ち出したりするという。
 そんな話を聞くにつけ思い出すのは、かつて友人と帰省する東海道線の列車で乗り合わした一人の紳士のことである。一、二等と違い三等となると車両はボロイかわりに、乗客達はお互いに親しさが湧いてくるものである。まして友人は話好きときている。すぐ前の紳士と話し合うようになった。紳士は
 「私は空襲ですっかり焼かれましてネ」
 「あの東京の空襲はひどいでしたものね」
 「本当に何もかもやられました。持ち出したのはこれ一つだけです」
と言って紳士は網棚からテニスのラケットを下ろし、いたわるように持って私達に見せた。
 その人にとって、かけがえのない愛用のラケットだったのだろう。その後紳士の名を言うとテニスをやっている同輩は、その人ならとても有名な選手だったと教えて呉れた。そのラケットには苦しくとも充実した数々の思い出が、また栄光が刻みこまれているに違いない。
 「これから大阪へコーチに行くのです」
といって紳士は私達と名古屋駅で別れた。その折告げられた名前は長い年月の間にすっかり忘れ去り、思い出す術なく今日に至ってしまい実に残念である。だが、一本のラケットに生命をかけた、その紳士の強烈な印象は決して忘れることがない。

昭和51年(1976年)7月30日 金曜日

奈良新聞のコラム「遠雷」に掲載(第3回)

随筆集「遠雷」第3編

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