ワタシも出たい
治多 一子
今日、私が佐保路を自転車で走っていたとき、たまたま停車場でバス待ちの数人の高校生に出会った。と、その子らは−−前任校の生徒だったが−−
「先生、文化祭に来て下さい」
と誘ってくれた。
自分達の文化祭にクラブ員とし、あるいは学級の一員として各種のもよおしものに積極的に楽しく参加している様子がうかがわれ、私までうれしくなった。この子たち、はたまたこの世代の子らは実に仕合わせだと思う。
学校行事たけなわのころとなると、私の小学三年生のことを思い出す。当時学芸会とか音楽会とかに選ばれるのは、きまって成績の良い子や可愛らしい子で、いずれにも該当しない私達は、終日ゴザに座っているだけである。そしてそんなものだとあきらめていた。
ところが、ある日同級生のY子ちゃんが、どう思ってか、私達に
「ワタシらも出してと言いに行こう」
と言った。せん動されやすい私はY子ちゃんの言葉につられてついて行った。Y子ちゃんは、
「先生、劇にウチも出たいワ」
「ウチも」
「ワタシも」
口々に言った。そんなことがあって先生もお考えになったのだろう。私達全員が参加できることになった。連隊長の子で級長のM君が本を読み、それに従って行動する劇であった。
それは、おじいさんの作ったかぶら(大根だったか)が大きくなりすぎ地面から引き抜けない。おばあさんが手伝っても抜けず次々と家畜が手助けに行くというストーリーであった。私はアヒルで舞台をお尻をふりながら、ガアガア≠ニ言い鶏の後からかぶらをひっぱろうとする役である。
Y子ちゃんは、そのときもうひとつの劇で七福神が紙の船を動かすのがあり、ベンテンさんになった。子供心でさえぬベンテンさんだと思った。私もY子ちゃんも、今まで一度も出してもらっていない他の子も全部ヒヨコにしてもらいすごくご機げんさんだった。
それは遠い昔のことになった。が、自分達の意志で参加できたという喜びは今でも微笑しく思い出される。そんなことは、あとにもさきにもなかった。
私達の時代と違い、今の子らはほとんど自分達の手で計画し、かつ参加でき本当にすばらしいことだ。折角の機会に、若き日のよき思い出のため精一杯やってほしいと思う。
昭和51年(1976年)10月20日 水曜日
奈良新聞のコラム「遠雷」に掲載(第6回)
随筆集「遠雷」第6編
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