先輩Oさん
治多 一子
A駅から私の横の座席に紳士がすわった。旅行グループの一員らしい。
「これから北陸の温泉へ行きます」
と気軽に話しかけてきた。私もつられて
「旅行はよくなさるのですか」
「よくしますよ。この間も沖縄へ行ってきたとこです」
「沖縄は海が美しいですってね。アメリカ軍の基地はずいぶん広いと聞いてますけど本当?」
「そんなことはないですよ」
「沖縄の南部では、大勢の人が戦死されたと聞いていますが、そこで私の親せきも戦死していますし、先輩も死にました」
というと、くだんの紳士
「どこの家でも一族の誰かは死んでますぜ、戦争ってそんなものですわ」
「亡くなった人に対して申し訳ない気がして、一体どうしたらいいのだろうと思いますわ」
今更のように思いあまっていうと
「そんなこと女の感傷ですよ。残ったものが栄えたらそれでよろしい。死んだ人はそれで喜んでくれますぜ」
至極アッサリ片付けてしまった。犠牲者の上に築かれた現在の繁栄であることを考慮しないその紳士とはもう口をきくのもいやになり窓外に眼を移し、先輩のOさんを思い出していた。
Oさんは私と同じ寮生であった。確か隣の寮棟の総代をしていたように思う。学校の球技大会での卓球の腕前は抜群でみんなほれぼれと見とれたものである。眉毛の濃い目の大きく美しい顔は知的でとてもすてきだった。
卒業後母校へ赴任したと聞いていたが、そのOさんが戦死していたと知ったのはごく最近の事である。
あの悲しいひめゆり部隊≠フ乙女たちと一緒に若き命を国にささげたのだった。
Oさんの母校というのは、沖縄の女子師範学校で、そこで生徒とともに、軍隊の仕事をしていたのである。
ひめゆりの塔≠フ慰霊碑には、Oさんの名前も刻まれてあると聞く。Oさん初め多くの祖国のために散った人々に私達は一体なにができ、なにをしなければならないのだろう。
Oさん! あなたのやり残した仕事を私達後輩は精一杯がんばってやって行きます。それだけが、せめてもの私達のできることですから≠ニ私は心に誓った。
昭和52年(1977年)2月14日 月曜日
奈良新聞のコラム「遠雷」に掲載(第10回)
随筆集「遠雷」第9編
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