Kの旅
治多 一子
A「おたく宿とれました?」
B「ええ、やっとね、おたくは?」
A「友達に頼んどいたのが、今日あたり返事あるはずなの」
耳に入ってくる会話は受験生の宿のことらしい。
B「あの子ったら、とても神経質でしょう。ついていかないと気になってネ」
A「ウチの子、目覚しぐらいではとうてい起きないから、試験に遅れないように起こさなくちゃ」
B「あの子ったら緊張するとすぐ胃腸こわすので、漢方薬煎じてもって行ってやりますワ」
この人達の子は何れも奈良を離れて大学の受験に行くようだ。親がついて行くという話なので女の子かなと思っているとどちらも男の子である。聞くともなく聞いている私は、当節よくいう過保護とはこの子らのようなのをいうのではなかろうかと考えつつ、私達の育った頃と思い比べていた。
入学式も卒業式も選挙権のあるくらいに大きくなった子弟に親がついて行くのが現在の風潮らしい。まして受験ともなると大変で、先日もテレビである大学で受験生についてきた父兄を撮していたが、両親で来ているのもあったようだ。
こんなのを見聞きするとき、何時も思い出すのは友人Kのことである。
Kは今はもう日本の領土ではない台湾の南端高雄−−亜熱帯であるから庭でバナナ、マンゴーなどなると言っていた−−の出身であった。両親の生まれ故郷の内地で勉強するために上級学校を受験することになった。一次試験は台北で受けられたが、二次試験は本校で受けなければならない。
だが船の便がなく、やっと船員さんに頼みこんで貨物船に乗せてもらった。客船でないから寝るところがなく石炭の間で寝起きし、黒くよごれての十日間もの長い船旅であった。しかも風雲急を告げる時局下、いつ海の藻屑になるやも知れぬ危険にさらされての受験生の旅であった。
小柄なオカッパ頭であどけなさの残った女の子には付添の人とてなく船員さんの中にまじって唯ひとり、そして内地で迎える人もなかったという。
子を思う親の気持ちは今も昔も変わらないはずである。Kもえらいが、我が子を案じながらも信じ独り旅させた親は見上げたものだと、今の過保護の時代だけに一人感じ入るのである。
昭和52年(1977年)3月20日 日曜日
奈良新聞のコラム「遠雷」に掲載(第11回)
随筆集「遠雷」第10編
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