神宮外苑
治多 一子
先日、所用あってYさんを訪ねると茶の間のテレビで東京六大学野球を観戦中であった。高校野球と違って、私は大学野球には全く興味がないので所在ない思いをしていると、Yさんは気をつかって話しだした。
「両親が私に医者になれと言って、女学校出ると東京の予備校に無理に行かせたのよ」
「九州からとは大変ね」
呆(あき)れてこの年上のYさんを見た。
「勉強が嫌だから学校へ行かず、アチコチ遊び回ったわ。ちょうど従兄が慶応にいたから六大学野球もよく見に行ったし…」
「Yさんが大学野球のファンとは知らなかったわ」
「スゴクよかったわよ」
Yさんはそう言いながら、一生懸命画面をみている。私もつられ、見るともなく見ていると、選手のなかに、江川投手を初め、高校時代甲子園をわかした何人もの選手がプレーしていた。優勝決定戦というので、五万五千人の大観衆が集まっている。
テレビはクローズアップして私達にスタンドの光景を見せてくれた。男女学生の大応援団はスクラムを組み、右に左に交互にゆれ動き声援しているのを見て、私はゆくりなくも三十余年前の壮行会を思い出したのである。
昭和十八年十月二一日。今、男女学生が応援しているスタンドに、冷たい雨の降るなか私達は一本の傘(かさ)に何人も身をよせて立っていた。戦争は日増しに苛烈さを加えたため文科系学徒の徴兵猶予は停止となり全国一斉に一人残らずペンを銃に待ち替えたのである。
ゲートルをまき銃をかついだ若い学徒がグラウンドにぎっしり整列した。東京大学教育学部の学生が出陣学徒を代表し、
「今、六大学野球で青春の血を燃やしたこの代々木原頭から祖国のため出陣す……生(せい)らもとより生還を期せず……」
と、悲痛な決別の言葉を残し、白線帽の第一高等学校生徒達を先頭に次から次へと雨のふりしきるなか、グラウンド内を行進し、そのまま戦場へと向かって行った。
私達はおびただしい青年達の最後の一人が外苑から立ち去るまで身じろぎもせず見送ったのである。誰も涙を見せまいとグッとこらえつつ……。あの学徒兵の中には、そのまま永久に故国に帰らぬ人が多かった。
当時を思い出すにつけ平和への願いをみんな一層強く持たねばならないと、しみじみ思うのである。
昭和52年(1977年)6月17日 金曜日
奈良新聞のコラム「遠雷」に掲載(第14回)
随筆集「遠雷」第11編
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