遠雷(第15編)

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マイペースで

治多 一子

 野球帽をかぶった小学二、三年ぐらいの男の子が数人、私達の前を大声で話ながら歩いている。
 A「あんな校長先生いらんな」
 B「せや、あんなケッタイな顔の先生いらんのう」
 C「狸みたいやろ」
 D「あんなオジイかなんな」
 私達はあきれて顔を見合わした。われわれの小学生のころは先生≠ニは絶対的な存在であり、いわんや老若美醜を問題にするなんて思いもよらぬことであった。
 「こんな子どもでもこの位のこと言っているのだから、私達何を言われているか分からないわね」
 「本当にそうネ、ああ恐ろし」
 過日、新聞部からのアンケートに尊敬する先生とは?≠フ項目があり、生徒のいうことを分かってくれる先生≠ニ答えているのが多数あった。生徒とは年齢も違うし、生きてきた時代の背景も違うし、理屈で分かっても、感覚的に分かることはむずかしい。また、よしんば分かったとしても指導する立場にある以上分かった、分かった≠セけで済むものでない。
 「思えば、あの先生って立派ね」
 私達の共通の知人、M先生に話が及んで来た。
 「あれだけ生徒をひっぱって行くって実際大したものよ」
 「男ぶりは中の下ぐらいだし、もうくたびれ果ててボロボ口という年齢なのにネ」
 たしかにM先生にはファンというよりも、むしろ信者が多い。一体何故なのだろう。
 少年期におけるお父さんとの死別、祖国のために志願した七つボタンの予科練生時代、戦後のインフレ下に苦学しての学生生活、そしてつらい闘病生活など、さまざまの屈折した経歴でM先生の信念にみちた、それでいて淡々とした人格が出来上がったのであろう。
 君たちの言うことはよく分かる≠ニ生徒サイドに立ちながら結局M先生のペースに引っぱって行き、生徒は至極満足してひき下がるのである。全く不思議な力をもった人である。M先生のようになりたくても、精神的なひだ≠フない私達には到底出来るものでなく、真似をしても所詮つけ焼き刃に過ぎない。結局自分の持ち味を生かして行くより仕方がないとの事に話は落ちついた。
 「マイペースでがんばりましょう」
と言いながら私達は間もなく別れた。

昭和52年(1977年)7月22日 金曜日

奈良新聞のコラム「遠雷」に掲載(第15回)

随筆集「遠雷」第12編

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