遠雷(第16編)

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海外旅行は花盛り

治多 一子

 最近私のまわりは海外旅行のブームである。友人のNは、長女の美知ちゃんがもっかドイツ留学中なので、御主人と共に面会かたがたドイツを訪れることになった。
 「私はドイツ語が話せないけど、娘が話してくれるからまあ助かるわ」
とNが言うと、ふと思いついたように一人が、
 A「ミセスTがこの間ヨーロッパに行ってきたのですって」
 B「あらそう、うらやましい」
 A「そのミセスTが『会話なんか全然必要ない』というのよ」
 B「ええ? どうしてなの」
 つまり、こういうことだったのである。
 ロンドンのホテルで出発する朝、自分は時計がないので(スイスで時計を買うために持って行かなかった)時刻が分からず、廊下にも時計はないし、困り果てていると向こうから一人の立派な紳士が歩いて来た。
 ミセスTはツカツカとその人の方に向かって行き、やにわに彼の手をつかみグッと引きよせ、ひっくり返して時計を見た。くだんの紳士はあっけにとられていたが、Tは一言も発せずニッと笑っただけである。
 後日彼女いわく
 「会話なんか出来なくったって十分事足りるわよ」
 彼女はあちこちで、ここを先途(せんど)と土産を買いまくったとの事であるが、恐らく世にもすさまじい買い方をしたことだろうと思う。
 外国へ行けば、その地では個人であって同時に日本人の代表と見なされるのだから、国際親善、国際理解への一役をかっていることに心してほしいものである。
 私の知人のM先生は自分の訪れたい国の言葉を勉強しておられる。数カ国語をマスターして語学の天才と言われる彼でさえ、実り多い充実した旅にするため、忙しい中から毎日毎日三時間以上をロシア語の勉強のために費やしておられると聞いている。何年間も続く熱心さと努力に全く頭の下がる思いである。
 乗り物にメロメロに弱い私は終生外国へ行けないとあきらめているが、スイスイと異国に行き見聞を広げられる人は実にうらやましい限りである。
 私のあこがれの地ドイツへ行くNよ、私の分まで十分見学して来て下さい。そして日本人の代表とみなされる事を念頭において行動して来てほしい。ゆめゆめミセスT方式で振る舞うことのないようにお願いします。

昭和52年(1977年)8月19日 金曜日

奈良新聞のコラム「遠雷」に掲載(第16回)

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