三十一年目
治多 一子
「今年教えなくなった途端、親も子も道で会っても知らん顔するのよ」
「随分苦労して就職を世話し、喜んで『この御恩は一生忘れません』と言っていた人も、それっきり」
「本当に現金なものね」
「みんなそんなものよ」
コーヒー飲みながら、私達は不愉快な経験を話し合っていた。
実際、何らかの関係があるときは、わざわざ近づいて来てニッコリ笑ってくれるが、利用価値がなくなった途端、こちらから会釈しようとしても無視されてしまう。実にいやな感じである。
お互い何度も体験しているから、よく話が合う。不愉快さをかこって家へ帰ったら、何年ぶりかで思いがけずY子さんが来ていた。
「折にふれ、アンタの事言って喜んでいるのだけれど、つい御無沙汰して…」
「今日は一体どうしたの」
「主人が今朝『治多さんに世話になって奈良県へ来たのは、三十一年前の今日だよ』と言ったのでネ」
「まあ! そうだったの」
「いつもアンタのおかげやと言って喜んでいるのよ」
当時大阪勤務の御主人が奈良県で勤めたいので、よろしくとのはがきをY子さんから貰った。早速先輩にお願いしたら、その人の紹介で都合よく奈良県の高校へ転勤出来たのである。
ずっと昔の事になってしまっていたのに、いまだにそんなに喜んでもらっているなんて実に恐縮してしまう。
女学校で五年間同じ組だったY子さんだが、背の低い彼女とはほとんどつき合いはなかった。しかし御主人とは、その後二度も偶然同じ職場で働く不思議な御縁があった。
朝からわざわざ私のために作ったという心尽くしのみたらし≠食べながら、こんなに感謝されて本当にもったいないと思い、彼女の言った言葉を反すうするのだった。
「友達って不思議ね、長い間疎遠だったかと思うとヒョッコリと親しくなったりしてネ」
お世辞にも決して器用と言えない彼女が、私の好物のみたらし≠こんなに上手にたくさん作ってくれた気持ちを思うとき、胸にジーンとくるものがあった。
昭和52年(1977年)12月19日 月曜日
奈良新聞のコラム「遠雷」に掲載(第20回)
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