遠雷(第22編)

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一ファンから

治多 一子

 ノンちゃんのお母さんが、
 「うちの子が甲子園で野球することになったのですよ」
と町内をふれ歩いたのは昭和八年のことと思う。家の前でバットの素振りをしていた野球の兄ちゃんが甲子園へ出るというので、同町内の私達子供は、いっしょうけんめい応援したのである。
 「のんちゃん勝て」
 「郡中勝って」
 だが声援空しく、アッサリ負けてしまい私達はガクッときた。が、それを機にみんな未だ見ぬノンちゃんの学校のファンになったのである。
 それから長い年月が経ち、ある夏の午後春日神社の一の鳥居の近くを歩いていると真黒に日焼けした少年の一団に出会った。後尾の二、三人が小声で話をしていたが他のものは、それぞれ野球のバッグを持って黙々と歩いている。彼らの帽章から郡高の生徒と分かった。
 「ホンマに惜しかったなァ」
 「かわいそうやのう」
 大人が数人歩きながら話していた。その日は春日野グラウンドで紀和大会があり、奈良県代表のノンちゃんの母校が負けたのである。
 奈良県勢の前に立ちはだかる和歌山県勢の壁は厚かった。毎日毎日の激しい練習に耐えてきた郡高ナインの敗北の悲しさがみんなの表情に、姿ににじみ出ていて、痛ましく私はしばらく見送っていた。
 その後、一の鳥居を通るときあの子達かわいそうだったなァ≠ニ思ったものである。それほど私の目には忘れられない悲しげな印象を与えていた。
 今度ノンちゃんの母校が春のセンバツに選ばれ、何十年もの前からのファンの私達にとって、とても喜ばしいことである。
 並み並みならぬ練習の末選手が実力でかちとったことはもとより明らかであるが、父兄の理解と協力、選手を育てた監督さんの情熱、OBの執念、先生方の励まし、地元ファンの声援などどれ一つ欠けても今日の栄光を得るのは難しかったのではないだろうか。
 選手諸君は、ぜひ郡高の野球史の中に、はたまた県野球史の中に輝かしい一ページを加えてほしい。
 甲子園を夢みつかなえられず涙をのんだ先輩の分も精一杯やり、高校時代に自分は燃えた≠ニ言い切れるさわやかな思い出を残してほしいと思う。
 転宅して、何処へ行ったか分からないノンちゃんも、きっと元気で後輩の活躍を期待していることと私は信じている。

昭和53年(1978年)3月27日 月曜日

奈良新聞のコラム「随想」に掲載(第22回)

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