制 服
治多 一子
我々の年齢ともなれば身体のアチコチにガタが来る。昨日も病院通いをお互いにかこちあったあと。
A「町で会えば平凡な娘さんや主婦なのに一たん看護婦さんが、あの白衣を着ると立派ね」
B「りりしくて素敵」
二人の話を聞いて私はごく最近、O病院でお世話になった何人もの看護婦さんを思い出した。真夜中でも全くいやな顔、態度をすることなく親切でテキパキといろいろ対処して下さり、本当に信頼できて、ありがたかった。かつて同級生が「白衣の天使」としてあこがれたのも、うべなるかなと思った。
「私達は白衣を身につけた時、自然と身がひきしまります」
ある看護婦さんが言っておられた。病院であの制服を着けたとき、自覚、責任感、使命感というのが身体にみなぎってくるのであろう。
ある尼僧さんも
「私達が『ころも』をまとったとき尼僧であるとの使命感が一層はっきりします」
と言われたが、プロの制服を着けた人のその心意気が第三者にひしひしと迫ってくるのであろう。
この中間考査で、さる教室に行き問題用紙を配っていると、ある男生徒が、
「オバハン紙くれ!」
と大きな声で言った。その列は人数が多いので一枚用紙が足らなかったのである。私はすぐ追加を持って行き
「ネエチャンと言いなさいよ!?」
と笑って言った。
後刻同僚に話すと
「ネエチャンとはチト無理よ」
と苦笑していた。
私達には着る制服はない。かと言って制服があればよいとはもちろん考えてもいない…。戦前台湾の高雄では教員も制服があったと聞いていたが…。
たとえ制服を身にまとわなくとも、看護婦さんや尼僧さんがそれぞれ自己の職務に真剣にとり組んでいるように、一たび教室に入れば教師としての自覚と使命感が身内に燃えているならば、親しみの中にも毅然たるものが自(おの)ずからにじみ出るはずである。
そうしたら、かの男生徒にあの言葉を出させなかったのではなかろうか。長い間教師をしていてだめだなあと、深く考えさせられたのである。
昭和54年(1979年)10月26日 木曜日
奈良新聞のコラム「遠雷」に掲載(第23回)
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