遠雷(第25編)

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Aさん

治多 一子

 今年の夏、数人が集まってミニ級会をもった。私たちは一緒に勉強したというよりも、一緒に働いたという思い出の方がずっと多い。トロッコ押し、兵器の梱包(こんぽう)、豚の餌やりなど思い出話が尽きない。そして最後に誰かれとなく先輩、後輩の消息を聞かされる。
 「ご主人が亡くなられてMさん大変なのよ」
 「あのスラッとしたNさんは?」
 「あら、知らなかったの、あの人胸で早く亡くなったわ」
 「貴女のお部屋のAさんお気の毒ね」−私と同室のAさんは明るく、あっさりして親切ないい先輩だった。彼女は
 「断然凄いのよ」
 「断然素敵よ」
と、断然≠ニいうのが口癖だった。そのAさんが、コンロン丸に乗って遭難したと風の便りに聞いていた。しかし、いつ、どこでどうしてかは知るよしもなく長い年月が経った。ところが、今日思いがけず知ることが出来た。
 これ読みなさい、ともらった連絡船物語≠フ戦禍をうけて≠フ章に「関釜連絡船・崑崙(こんろん)丸は十月五日二時ごろ沖ノ島附近において敵潜水艦の雷撃を受け数分にして沈没せり。海軍航空機および艦艇ならびに附近所在船舶の援助により極力救難に努めたるも海上浪荒く且つ、就寝中の事故なりしため乗客、乗組員合計六一六名中、只今迄判明せる生存者七二名なり」と遭難してから一カ月も経って突如鉄道省は発表したと記されている。
 当時各学校は繰り上げ卒業が行われ、Aさんも三月卒業予定が半年繰り上げられ九月三十日に卒業した。そして直ちに母校の大連の女学校へ勤めることになった。出発の日、見送る私たちに彼女は
 「また内地に来るわネ」
といい、さらに
 「母校だから断然はりきっちゃうわ」。
 バスケットが上手で、元気ではち切れそうな小麦色をした顔から真っ白い歯をのぞかせ喜んで言っていたAさん。その人が卒業してわずか五日目で玄海灘の藻屑(もくず)となり果てたのである。
 戦争への憤りが抑え切れない。どんなことがあっても決して戦争をしてはならない。入学後、寮の玄関で同室のものが一緒に写した写真は空襲で焼かれてしまった。だが真ん中でニッコリ笑っていたAさんの画像はいつまでも私の脳裏から消え去ることはない。

昭和54年(1979年)11月21日 水曜日

奈良新聞のコラム「遠雷」に掲載(第25回)

随筆集「遠雷」第18編

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