遠雷(第30編)

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また会いましょう

治多 一子

 先日小学校の級会の案内状が来た。御苦労様にも毎年係の人が世話してくれる。
 『一度出ておいでよ』
と仲よしのMちゃんが言うが、何時も学校行事とかち合って出られない。小学生時代ともなると遠い、遠い昔のことで顔も思い出せないものが多い。そして何人もの子はすでに亡くなっている。
 往復はがきを手にふと、Iさんはどうしているかな≠ニ思った。五年間女学校でも同じ組だったが卒業以来一度も会っていない。
 ところが、偶然遠縁の病院の院長夫人になっていることがわかり、人づてにぜひ会いたいと言って来た。
 二日後私は指定された時間に訪れた。愛くるしい、美少年の様なIの面影はなく、道で出会っても知らずに通り過ぎてしまうまでに変わっていた。ただ、二重瞼の黒く輝く瞳だけが往年の面影を残していた。
 「私はリューマチをやり、そのあと胃を切りとり、今は少しずつしか食べられないのよ」
 「大変だったのね」
 「今、また淋巴腺(りんぱせん)が腫れて治療中で、お話しする時間も二時から三時までで、あと静養しなければならないの」
 コバルトをかけるので衰弱するという。聞けば聞くほど悲惨な身体である。
 「私に信仰がなかったら、とっくに参ってしまったでしょうネ」
 空襲で焼け野原の中、お嬢さん育ちの彼女がご主人ともども金槌や鋸まで使って病院の再建に骨身をけずり、また、お姑さんとのきびしいトラブルで神経をすり減らしたIに、見かねて勧める人があって教会の門をたたいた、それが彼女の入信のきっかけだったという。
 この年でラケットを買い、トレシャツ、トレパン、シューズまで一式揃えてテニスに燃え出した私は彼女の前にいるのが申し訳なく思われた。
 「私は身体は駄目になっているが、信仰のおかげで心は健康なの」
 宗教は何であれ、それを信仰する人々には逆境、苦境にあってもそれに堪える力が与えられるのだとしみじみ感じた。
 玄関まで送り出してくれた彼女は
 「もしも生命があれば、また会いましょうね」
 私にはとても足もとにも及ばない偉大なクリスチャンの尊い姿をそこに見出したのである。

昭和55年(1980年)4月13日 日曜日

奈良新聞のコラム「遠雷」に掲載(第30回)

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