あヽ球技大会
治多 一子
今日は五月晴れの好天気に恵まれ生徒会主催の新入生歓迎の球技大会があった。赤、青、緑の学年別のトレパン姿が動きまわる。
「おーい走れ走れ」
「アウト」
「惜しい、どんくさい」
男生徒のソフトボールを応援する女生徒の声がにぎやかである。校庭の樹木の新緑が目にしみ近くの民家のコイのぼりの赤、青、黒のコイが大空をゆったりと泳ぎ、薬師寺の塔の姿が美しくながめられる。
新緑の候の古都はすばらしい。恵まれた自然の中で競いあう若人の姿を目で追ううち、ふと私は遠い昔を思い出さされた。
ころも同じ新緑の美しい時だった。やはり今日のように私たち新入生の歓迎の球技大会が開かれたのである。バレーボール、テニス、卓球、バスケット等それぞれ必死の攻防が続いた。級友のNさんが応援団員を買ってでた。元気のいいのが後に続いた。
「青葉かおる五月空に…」
始めて聞かされる応援歌である。太鼓、鐘をたたき、ここをせんどと声を張りあげていた。ひところ人見絹枝さんに憬(あこが)れた私は先輩に混じってチョロチョロ動き回り、
「もっとよくボールを見なさいよ」
と注意される一コマもあった。校庭のツツジの紅紫が目にしみたのが昨日今日のように鮮明である。燃えた球技大会は数々の思い出を残して終わった。応援団の旗はていねいにたたまれた。団員のハチマキとともに。
「来年また使いましょうね」
だれかが言った。だが私たちの在校中二度と球技大会の行われることはなかった。
間もなくみんな学徒動員にかりたてられたからである。あとにも先にもない、たった一回きりの球技大会であった。率先して応援団に入ったNさんは二十歳代の若さで自殺し、Sさんは胸を病み再起不能となった。あの時活躍した人たちの何人かは沖縄で、外地で、亡くなった。みんな戦争のために……。
戦争を知らずに育ったこの若人たち、歓迎された新入生は来年また後輩のための歓迎球技大会を行うだろう。
こんな事がずっと続く世であってほしい。秋の応援歌「紅葉はゆる…」はとうとう歌われずじまいに終わり、そしてあの日の写真も空襲で焼けてしまった。
昭和55年(1980年)5月10日 土曜日
奈良新聞のコラム「遠雷」に掲載(第31回)
随筆集「遠雷」第22編
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