遠雷(第33編)

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健司の星

治多 一子

 「ここ空いています?」
 宇野線に乗ると老婦人が私の横の席を指した。
 「はい、空いていますよ」
 乗り物に弱い私は進行方向をむいたきりジッとしていると、その婦人は気軽に話しかけて来た。ショルダーバッグを一つ持っただけで至極旅なれた感じである。
 「どちらまで?」
 「奈良へ帰ります」
 「私は今晩京都の民宿で泊まり京都見物して、奈良の秋篠と長谷寺と室生へ行って明日の夕方までに四国に帰りたいのよ」
 ちょっと無理だから、今日これから奈良まで来て秋篠寺へ行き、ついでに佐保路のお寺にお参りし明日京都を見物されたらとすすめた。その気になられたので、法華寺さんと興福院さんへの紹介状を書いて渡してあげた。そのとき
 「死んだ息子の下宿の小母さんが奈良の人で一緒に高野山へ連れてもらいましたよ」
といいながら息子さんのことをまるで他人事の様に話しだされた。私は最愛の息子さんに先立たれておられるのにこんな淡々とした話しぶりに、ふと奇異な思いをするのだった。
 大学生だった息子さんは一緒にテレビでサッカーの試合を見ていた直後不慮の死にあわれたのである。それを話されるのに新聞の記事を語っておられる様で、なんとも言えない感じであった。ところが、ややあって
 「あの子のエトは牛ですのでネ牽牛(けんぎゅう)星をあの子と思っているのです。でも牽牛星だと半年会えないから、牛のつく牛飼座、牡牛座の中で一番光っているのを『健司の星』としてながめます。『健司の星』が二つ見える時期もあるのです」
 そして、暫く沈黙が続き
 「こんなに親切にして頂いたのはあの子のおかげです。あの子は私たちを守ってくれてます」
 私は女学校の時、和綴(わとじ)の国語の教科書で芥川龍之介の「手巾(ハンカチ)」の文を思い出した。息子をなくした母親が笑って全身で泣いていたという話を…。健司の星≠見つけずにはおられない老母の悲しみが私の心にひたひたと押し寄せて来た。
 世にこの老母の様に逆縁の悲しさをこらえ我が子の魂を永遠に生きつづけるものになぞらえ見い出した人はどんなに多いことだろう。
 今晩も美しい星空で健ちゃんの星≠ェ輝いて見えるように、願わずにおられない。

昭和55年(1980年)7月9日 水曜日

奈良新聞のコラム「遠雷」に掲載(第33回)

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