遠雷(第35編)

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ふるさとは消えた

治多 一子

 「鶏小屋はどうなったかしら」
 「朝早くから鶏に起こされたわネ」
 「豚小屋覚えてる?」
 口々に言いながら、みんなそれぞれの思い出を抱いて上州路に向かった。
 私たちが赤城の山を背に富士見村を去ったのは三十五年前であった。海軍水路部の仕事を学校でやっていたが、東京大空襲の日、寄宿舎が全焼し、住む所をなくした私たちは農村へ動員された。そこが群馬県富士見村であった。
 県立種畜場の事務所の二階板の間や鶏舎の当直室で寝起きし、午前中は修養道場で授業をうけ、午後は農作業の明け暮れであった。全く慣れない仕事だが場長さんの指揮のもと、みんな懸命に働いた。
 眼下に絵のように美しい前橋を見下ろし、朝夕赤城の山を仰ぎ、夜は牧場の草に座り星をながめたものだった。八月四日夜、空襲があり、紅蓮の炎が空を焦がし、そして翌日あの美しい前橋市は赤茶けた色に変貌していた。まもなくそこで私たちは終戦の日を迎えた。赤城山にいた高射砲隊の若い兵隊さんは、
 「戦争は終わってない。これからだ!」
と叫んでいた。
 私たちは三々五々と泣きながら山を下りて行った。みんなの胸に赤城の山が、種畜場が懐かしく第二のふるさと≠ニも言えるのだった。
 卒業三十五周年を機に今一度この目で見たいと雨のそぼふるなか私達は種畜場を訪れた。当時の場長のSさんは大変喜ばれ、
 「みなさんに会えてとてもうれしい、長生きしてよかった。でも家内は三年前に死にました」
 場長さんの頭髪は真っ白だった。
 名称も変わり、随所に新しい建物がたち、当時の建物は跡かたもなく、赤城山への道の松並木さえほとんど消えていた。
 「ふるさとは遠くにありて思うもの」
とだれかが言った。こよなく愛し夢にも見たふるさと≠ヘもうなかった。みんな足も重く帰った。
 これにつけても、しみじみ思ったことであるが、歴史のふるさとと言われる大和、こわされると二度と造れない、だからそこに住む人たちに迷惑を強いることなく、誠意をもって不便をかけぬ方法をこうじたり、保障するなどし、国が日本のふるさと、世界に誇る環境を残すよう真剣に考え実行してほしいものだ。

昭和55年(1980年)9月15日 月曜日

奈良新聞のコラム「遠雷」に掲載(第35回)

随筆集「遠雷」第25編

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