遠雷(第37編)

掲載年リストへ   題名リストへ  前編へ  次編へ

残るものは

治多 一子

 「お花もっていらっしゃいよ。」
と言いつつ気の大きいY夫人は欲しいだけ取るようにと、はさみを持って来て下さった。私は菊をたくさんもらいその足でお墓へ参った。
 参道には、すっかり穂になったカルカヤがいたる所に生え、ところどころにアキノキリン草が咲いている。
 彼岸中と違い参っている人は誰も見ず数多くの墓標だけが静まりかえった中に立っている。生存中、どんなに動きまわり活躍した人もすべて物言わぬ冷たい石になってしまっているのである。
 どうせ、みんなこうなるのに、なぜ束の間の栄達に躍起となるのだろう?
 あちこちのお墓にいただいてきた美しい菊をお供えしていった。
 墓地の西端にとびぬけて大きく立派なT氏のお墓があるが、お花の供えてあるのをついぞ見かけたことがない。
 それにひきかえ東の端にはT氏のに比べるとずっと小さいM氏のお墓があるが、いりかわりたちかわり誰かがお花を供えている。家族の方たちは東京へ引っ越されてもう何年も経っているとの事であるのに……。
 「大きなお墓のTさんて一代で巨万の富を築かれた方ですね?」
 「ええ、そうです」
 「お参りする人ないのでしょうか」
 「家族の方も見えないようです、生前にはずいぶんアチコチ寄付され、親せきはじめいろんな人がよって来たのでその世話をされたと聞いていますがネ」
 甘い蜜を吸おうと人蟻がよってたかったことであろう。
 「M様は、おひげのチリを払う人をお好きでなかったようよ」
 蟻は蜜がなくなればそれまで。次の蜜を求めてあっさり移って行く。T氏は人蟻に囲まれていたのである。M氏の方は人間どうしの温かいつきあいを大切にされたのであろう。
 そんなことを思いつつ、私は女学校を卒業して東京の学校へ行く前
 「一子さん、おじさんが一緒に食事しましょうとおっしゃるからいらっしゃいネ」
 立派な本会席膳でご馳走してくださった元代議士ご夫妻のお墓に菊の花を供えまごころ≠ヘ人の心に何時までも残るものだとしみじみ思った。

昭和55年(1980年)11月14日 金曜日

奈良新聞のコラム「遠雷」に掲載(第37回)

掲載年リストへ   題名リストへ  前編へ  次編へ

©2008 Haruta Kazuko All Rights Reserved.