忘れ得ぬ機関士さん
治多 一子
国鉄の話となると、そのたびに私はずっと以前のことでありながら、まのあたりに見るように鮮明に思い出されることがある。
戦争も終わりに近づいたころであった。食糧難の時代で私は親せきで餅(もち)をついてもらいバッグに入れ汽車に乗り込んだ。かれこれ一時間も乗っただろうか、汽車が止まった。そこは米原駅だった。駅員さんが大きな声で
「空襲警報が出ました、みなさんおりて防空壕(ごう)に避難して下さい」
私たちは駅員さんに誘導され、みんな防空壕に入った。だれかが
「敵機が機銃掃射に来たらしい」
「頭出すなよ」
私たちをおろした列車はそのまま待避線に入って行った。
しばらくすると大きな音をたてて汽車が左手から驀進(ばくしん)してきた。それは長い長い貨物列車であった。私はこの車もここで警報が解除されるまで待避するのだろうと思っていた。
だが、車は止まるどころかガタンガタンという音をさせスピードアップしているかのように私たちの目の前を通り過ぎて行った。ライトブルーの作業服を着た二人の機関士さんが乗っていた。一人は年輩で一人は若い人だった。石炭を大きなシャベルでどんどんかまに入れているのが見えた。炎の赤さが帽子の黒いアゴヒモをかけた彼らの引きしまった顔を照らしていた。
壕の中の一人が言った。
「あの貨車は南方むけの軍需物資運んでいるんやで」
だからこそ一刻を惜しみ昼夜も分かたずひたむきに走っているのだろう。
「国思ふ道に二つはなかりけり戦の庭に立つも立たぬも」
私の頭に明治天皇の御製(ぎょせい)が浮かんだ。この機関士さんは、まさに戦場における兵隊さんの姿だ。言われるままに壕に入っていることが申し訳なくなった。遠ざかる列車を見送りながらいつ爆撃や機銃掃射の目標となって殉職されるかもしれないと思うと目頭が熱くなった。
廃止されようとしている路線のなかにあのころの国鉄マンが命をかけて走ったところがあるに違いない。
今、国鉄再建をめぐって赤字路線の廃止が問題になっている。労使双方がメンツにこだわるという、ちっぽけな了見を捨て大所高所に立って長い将来のことを考え、国民の幸せのために労使一体となってとりくんでほしいとみんな願っているのではないだろうか。
昭和56年(1981年)4月15日 水曜日
奈良新聞のコラム「遠雷」に掲載(第41回)
随筆集「遠雷」第27編
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