遠雷(第44編)

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ミニ級会で

治多 一子

 「もうちょっとやな」
 突然起き上がってNが言った。私たち三人がミニクラス会をしていた時である。
 彼女はご主人の、持病の食養生のつきあいをしていた。それで、一度キューちゃん漬でご飯を食べたいと思っていたそうである。
 今日はささにしき≠フご飯をたらふく食べ、眠くなりみんな一緒に横になって間もなくのことだ。私はビックリし、
 「何がちょっとなの」
 「いのち≠竅Bもうだいぶ生きて来たわ。残りもうちょっとやで」
 「うん、そりゃそうだけど」
 彼女はじっと自分の右手の親指を見つめていた。先月親指の腹に出来た不気味な腫瘍(しゅよう)で手術し、やっと抜糸をしたところである。
 生死の境に立たされた彼女、
 「若い時と違って五十代の手術は精神的にこたえるわ」
 私たちにジワリと迫る言葉である。
 「何人もの友達亡くなったわね」
 横のAが低くつぶやくように言った。
 ドッジボールの強いYさん。汽車通学していたTさんは花嫁修行中に。玉子焼きの好きなEちゃんは幼児三人残して逝った。商売に燃えていた彼女とは小学校以来の友だった。
 ロクマク≠ノなった担任の先生の全快を祈って毎朝暗いうちから二月堂へお百度≠モみを一緒にしたOさん。彼女は後日結核で亡くなった。
 背が同じくらいの左組のIさん。徹夜して朝顔の開花を観察し、立派なレポートで園芸の先生をうならせた。そのIさんは卒業後その年の朝顔の花の開くのを待たず逝ったと風の便りに聞いたのはずいぶんたってからである。
 さらに、何人もの友が亡くなってしまった。
 クリスチャンのAは、
 「私たち生きている間一生懸命社会に還元しましょうよ」
 出来るだけ長生きして、払った税金を取り返さなくちゃ≠ニ、かねてワメイている私はあさましく、恥ずかしくなってきた。
 「切り取られた腫瘍は病院で研究されているのよ」
 Nはしばらくたって言い、さらに心の大らかな、仏教信者の彼女は、静かに言った。
 「何時まで生かさせてもらうか分からないけれど、ちょっとでも多くの人々に奉仕しましょうネ」

昭和56年(1981年)9月9日 水曜日

奈良新聞のコラム「遠雷」に掲載(第44回)

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