うさぎ
治多 一子
Eさんの家の柴折り戸を開けると足もとに白いものが猛スピードで走り去った。兎(うさぎ)である。
「お家で兎飼っておられるの?」
と聞くとEさんは、いささか情けない声で
「違うのよ。いつのまにかこのあたりに住みついたみたい」
「どこかの家から逃げたのかしら」
「子供たちは、トラックに乗っていた男の人が、黒い兎と白い兎を捨てるのを見たのですって」
黒い兎は犬にでもやられたのか、その後、姿を見たものはないという。
残ったのは、兎のためにとEさんの植えたさつまいもの葉や人参を食わずに花の蕾(つぼみ)や、植木の芽をバサバサ食って困ると嘆いている。
そういわれて見ると、さぞ立派に咲いただろうと思われる懸崖の菊は下半分には一つの花もついていない。全部兎の食糧となってしまった。また折角集められた多くの茶花も被害をうけている。
人影におびえつ、あちこちで餌をあさっている白い兎。私は兎の逃げ去った茂みに目をやりながら、ずっと昔のことを思い出した。
「明日は○室が、うさぎさんのお当番です」
といって寮で一つの鍵が順に次の室にと渡される。その室のものは、小屋の掃除をしたり、草をとりに行ったりする。
私は護国寺の緑青(ろくしょう)のふいたあかの屋根が望めるグラウンドでクローバーをとったことが、今もなお記憶に鮮やかである。白い兎さんはみんなになついていた。
「どうした兎さんですか」
室長さんに聞くと
「皇后さまが学校へ行啓の折、寮生に御下賜になったのよ」
と教えてくれた。食堂への行き帰りに、ときおり友だちと、かわいい兎さんを見に行ったものである。
戦争が烈(はげ)しくなる前に
「兎さんは亡くなりました」
と告げられた。寮生の間に淋(さび)しさが広がった。
同じように生まれた白い兎なのに人の姿に逃げまどいつつ、餌を求め、安らぎのない生活を余儀なくさせられるもの、さまざまである。
一体どういうことなのだろう
ある尼僧さんは即座に言われた。
「私たちはそれを、それぞれの持つ業(ごう)≠ニいうのです」
兎よ、寒さに向かうが、Eさんには迷惑かけるけれど、元気で長生きするように≠ニ私は祈らずにはおられない。
昭和56年(1981年)11月18日 水曜日
奈良新聞のコラム「遠雷」に掲載(第46回)
随筆集「遠雷」第29編
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