夜咄の茶事
治多 一子
「夜咄(よばなし)のお茶事は、とても趣があっていいのですって」
「だれか招いてくれる人無いかしら」
「ドあつかましいわね」
こんな会話を交わしてから、随分たって上野市のYさんから
「こんど夜咄をするからいらっしゃいね」
と言っていただいた。お茶の心得のない私だが、あこがれていただけにご好意に甘えて過日参上した。が、行って驚いた事には、たった一人の上品な婦人を除いて、みんな御出家である。
そして一番あとで行ったから座るところは、お詰※≠オかない。お詰なんて茶道に熟達した人でないとできたものでない。隣の婦人に変わってほしいと思ったけれど、大体お茶をやる女の人は、やたらと遠慮するか、いけず≠ニいわれている。
ああ!来るんではなかった
だが思い切って頼むより仕方がない。
夫人は足を病んでおられるのに気軽に立ち上がって
「いいですよ、代わりましょう」
これこそ和≠フ精神だと感激した。
お客さんは奈良県の有名な寺院のお上人様方であり、先刻の婦人もK管長の奥様である。喜んでホイホイと来たものの場違いで、これはエライ事になったと、いささかビビリ出した。
しかし、ご亭主の心からのおもてなし、当代一流の高僧方の、きどりや、たくみのないごく自然の物腰、応対に私のとまどいなど消えてしまい、ゆらぐ灯火(ともしび)の中で無信仰の私も、極楽浄土に遊んでいる思いに浸っていた。
八十歳をとっくに超えたYさんは
「みなさまのようなご立派なお寺さまに来ていただいて、こんなうれしいことはありません」
と言いながら感極まって目頭を押えておられた。これを見ると私まで涙が滲(にじ)んできた。
「こんなに年をとっていますから、いつもこれが最後だと思いつつやって来ました」
Yさんの顔が灯火にほ照って見え、雪見障子ごしに見える点々と並ぶ露地行灯(あんどん)が幻想の世界へと誘う。長老さまの一人は静かに
「一期一会ですな」
とおっしゃった。
この言葉は今まで幾度か見、聞きもしたが、これほど感銘をうけて聞いたことはない。本当にそうだ。人生は無常、再び帰らざる今を大切につかの間の人々とのふれあいにも誠をもってつき合おうと心にちかった。
※ お詰(おつめ):末席。末座。「茶の湯のお詰」(広辞苑 第三版から)
昭和57年(1982年)1月20日 水曜日
奈良新聞のコラム「遠雷」に掲載(第48回)
随筆集「遠雷」第31編
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