ある三高生
治多 一子
マムシが出て来ているから草引いた方がいいですよ≠ニ教えてもらい、ジャングルみたいに生えに生えた庭の雑草を引きながら小さなラジオのスイッチをひねったら、またもやフォークランド島の紛争を報じていた。そして当事国の青年が、日本の特攻隊のようなのに志願するのが多くなったという旨を放送していた。
聞いたとたん、私はかつての同僚W先生から、ずっと以前に知らされた話を思い出した。海軍予備学生の中に学業半ばにして志願して来た一人の旧制第三高等学校の生徒がいたそうだ。彼はどうしても自分に合わない軍隊生活に何日も悩みぬいたすえ除隊したい旨上官に申し出ると、親しい同期生に漏らした。それを聞いた先生ら同期生は
「そんな事やめよ。絶対聞きとどけられるはずはない。えらい目にあうだけだよ」
と彼の身を気づかって引き止めようと必死であった。だが彼の決意は固く上官の室に行き
「明治天皇の御製に国思う道に二つはなかりけり戦の庭に立つも立たぬも≠ニおおせられています。自分は道をかえお国のために尽くします…」
と自分の所信を述べたのである。それは、まさに自殺行為に等しかった。上官のもとを去りみんなの前にあらわれた彼の顔は、はれあがりふた目と見られるものでなかった。
翌日上官はみんなを集め
「貴様らの中に、こんなつまらないやつがいる。実にけしからんことだ」
と彼のことを、ひどく非難した。その三高生は即座にたった一人戦況不利な戦場へ送られてしまい、そこで戦死したのである。
W先生は憮(ぶ)然として
「彼はエライやつだと思った。惜しい男を死なしたものだ」
三高生のお父様は当時東京の有名な大学の教授であった。だが、息子さんの言動から軍の圧力がかかり、非国民の子供を育てた親が教壇に立つのはもっての外だということで大学を追われたそうである。最愛の息子の戦死、また自分のクビ、重ね重ねでどんなつらい思いをされたことだろう。
戦争とは公表されないところで、限りなく多くの悲劇を生むものである。どんな事があっても絶対にくいとめなければならない。
昭和57年(1982年)5月26日 水曜日
奈良新聞のコラム「遠雷」に掲載(第52回)
随筆集「遠雷」第32編
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