遠雷(第54編)

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地の底から

治多 一子

 「トンネルの入り口のところにお地蔵さんが見えたので、お母さんと、犠牲者のやなと言ってましてん」
 東北新幹線開通のテレビを見たYちゃんが話し出した。一緒にいた女の子たちが、
 「週刊誌に百三人の犠牲者が出たと書いてあったわ」
 「こんなに科学技術が進歩しているのにネ」
 「東北の出かせぎの人が多かったのですって、本当に気の毒ね」
 みちのくの新時代が来るといわれる東北新幹線の開通式を明日にひかえた六月二十二日、福島市の「信夫山トンネル」の入り口の上に殉職者の慰霊碑の除幕式がおこなわれた。除幕のテープをカットしたのは遺族の小学生だったとYちゃんが教えてくれた。
 責任者が万全を期していたなら起こらなかった事故もあったはずである。痛ましい犠牲者を出さぬよう出来ないものだろうか。こうした悲しい話を聞くたびに私は昨年の旅でのことを思い出すのである。
 タクシーに相も変わらず酔って早くホテルに着いて休みたいと思っているのに、運転手さんは、
 「お見せしたいところがありますので、ちょっと脇道に入ります」
と言って国道からそれ、ゆるい勾配(こうばい)の細い道に入って行った。どんなに素晴らしいところなのだろうかと期待していたが、しばらくして草のおい茂ったところで車は止まった。
 「ここです」
と運転手さんは言った。見れば碑が一つ建っているだけだった。そこは「鎖塚」であった。
 北海道開発のために旭川から北見沢平野を通り網走への国道をつくるため突貫工事をやったという。作業には網走刑務所に服役中の人々を強制的に動員したそうである。
 あまり過酷な作業のためその人たちは鉄の足枷(あしかせ)をはめられたまま、つぎつぎと倒れ亡くなった。それは明治二十四年のことである。彼らをつなぎとめていた足の鎖のみが多く残ったという。
 その人たちの中に刑期を果たし一日も早く故郷へ帰ることを願っていた人もあるだろう。もうすぐ赦(ゆる)されて家族のもとに帰れる人もあっただろう。なかには冤罪(えんざい)のままこの世を去った人もあるだろう。
 同行の尼僧様方のお経を聞きながら両手を合わす私には、ここに多く埋められた鉄の足枷の鎖に最後までつながれて逝った囚(とら)われ人の悲しみの声が地の底から聞こえてくるようだった。

昭和57年(1982年)8月5日 木曜日

奈良新聞のコラム「遠雷」に掲載(第54回)

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