遠雷(第55編)

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しみる言葉

治多 一子

 八月になるといつもKの言葉が思い出されるのである。
 彼女と私は偶然寮で隣の部屋になった。私は蘭の十二室、Kは蘭の十一室、ともに二階の見晴らしのいいところである。
 「お隣は賑(にぎ)やかネ」
 「室長さんが朗らかだもの」
 「またコーラスが始まったわ」
 私の室長さんは明るくないのでよけい隣室が目立った。
 Kは賑やかな上級生に影響されたか始終大きな声で歌っていた。大きく長いカバンを振り、背の高い上に大またで歩くからお尻が左右に激しくゆれ動く、そしてソプラノでグッとボリュームあげて歌い闊歩(かっぽ)する。音痴の私には羨(うらや)ましいことだった。
 折しも戦争は日増しに激しくなり、東洋一の寄宿舎だと上級生が自慢して教えてくれた寮も焼夷(しょうい)弾で全焼し、学校当局のはからいで私たちのクラスは群馬県の種畜場に疎開することになった。だが、無一物になった私たちは行く前にいったん帰省した。
 久しぶりに故郷へ帰って来たみんなは賑やかで、話もはずむ。
 「汽車が満員で新聞紙を敷いて通路に座ってたのよ」
 「私は車両のつぎ目にいて泣けてきたわ」
 「トイレまで人が乗っているから本当に困ったわ」
 その時Kが、
 「父が家族がみんな別れて住んでいるからだれかが生き残れるだろう≠ニ言ったのよ」
 彼女のお父様は旧制中学校の先生で学徒動員の付き添いで家を離れ、妹さんは女子専門学校の生徒として遠くはなれての動員生活、Kもまたしかり、家族全員離ればなれであった。Kの言葉がみんなの心にしみこんだ。
 私たちは赤城山のふもとで午前中は授業、午後は作業の明け暮れだった。八月に入ってまもなくKの両親が亡くなられたという知らせが入った。
 「空襲で亡くなったのですって」
 だれかが言った。はっきりしたことはKにも分からない。それは知らされなかったのである。
 お父様が言われたのは、虫の知らせ≠セったのだろうか。Kの故郷は長崎である。両親はあの憎むべき原爆で一瞬のうちに亡くなられたのであった。
 Kはその後、歌わなくなった。

昭和57年(1982年)8月26日 木曜日

奈良新聞のコラム「遠雷」に掲載(第55回)

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