遠雷(第57編)

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女木島(めぎじま)

治多 一子

 「早くはやく」
 一人が呼ぶと数人の女生徒がドタドタと走って来た。甲板での記念撮影である。キチンと並んでシャッターを切る瞬間、男生徒の一人がおどけた顔をして割り込み、写ってしまった。
 「○○君たら!! もう!!」
 ポンポン背中をたたいて女の子らは怒っている。売店で土産を買っている子、数人がフウフウいいながら甲板でさぬきうどん≠食べているなど、微笑したくなる旅行風景だった。眺める私には、残念ながら修学旅行の思い出は一つもない。いつも積立貯金しながら、行く間際になって担任の先生から
 「あんたは車に酔って、皆に迷惑かけるからやめなさい」
の言葉で連れてもらえなかった。だから、こんな光景を見ると羨(うらや)ましくなる。
 生徒たちは旅行に行く前ヤイヤイ言い、帰ってからも当分旅の話でもちきり、やっと落ちついてきたと思うと写真が出来てきて、また落ちつかぬというパターンで毎年繰り返される。そんなこと思うともなく考えていると、フト前に座っている中年の婦人の会話が耳に入った。
 「あの島が女木(めぎ)島ですのよ」
 この島は、瀬戸内海で高松、宇野の間にあり、姿は優しいが、大きな洞窟(どうくつ)のある、昔、海賊の根城であったという島。
 「そうですか、女の子たちの遺体が、あそこまで流れて行ったのですね」
 二人の会話は紫雲丸の遭難のことであった。昭和三十年五月十一日濃霧のため、紫雲丸は第三宇高丸と衝突し、第三宇高丸は船首を大破、紫雲丸は沈没した。ちょうど修学旅行の小、中学生が乗り合わせてあの事故にあったのである。女の子のほとんどが遭難したという。泣き叫ぶ声がさながら地獄のようであったと聞く。楽しみに待った旅行が、瞬時にして帰らぬ旅になってしまった。赤いカバンが、いくつも波間に浮かんでいたと聞いた。
 今日は、空あくまで青く、紺青の海に浮かぶ島影はその名にふさわしく美しい。あの惨事を思わすものは何もない。
 戦争もそうだが、事故も覆い隠すことなくありのままを語りつぎ、反省を繰り返し、悲しみも苦しみもない世にしたいものである。
 私は、帰らぬみ霊に心から黙とうを捧(ささ)げた。そしていま、連絡船讃岐丸≠ノ乗って旅しているこの子らが、恙(つつが)なく旅路を終えることを祈った。

昭和57年(1982年)10月21日 木曜日

奈良新聞のコラム「遠雷」に掲載(第57回)

随筆集「遠雷」第33編

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