遠雷(第62編)

掲載年リストへ   題名リストへ  前編へ  次編へ

音 痴

治多 一子

 「センセ、覚えられました?」
 「全然駄目、あれは、むずかしいでしょう」
 「あんなの自然にすぐ覚えてしまいますわ。英語の単語覚えること思ったら何でもないですわ、ホッホッホ」
 高二のA子ちゃんは至極あっさり言う。
 人から進められて、ずっと見ているテレビ番組の「必殺仕事人」のテーマソング冬の花≠フことである。秀サン秀サン≠ニ、けたたましくしゃべるオッチョコチョイ役の鮎川いずみ、藤田まことの養子をムコどの≠ニ、いやみたっぷりの姑(しゅうとめ)役の菅井きんと結構面白い。生徒に言うと即座に
 「先生教養ないわ」
と軽べつされたが…。
 物知りのYちゃんが
 「あの歌レコードになって、わりとヒットしてますよ」
と教えてくれたので覚えようとした。が、楽譜を見てしか歌えない私は、何十回聞いても旋律が皆目頭に入らない。口から出るメロディーは全く作曲されているのである。だれもが教えようとはしてくれない。私はウルトラの音痴だなあとひしひし思った。そして思いは何十年も昔にさかのぼった。
 小学校は機嫌良く遊べるところと思っていた私は大きくなったらオリンピックの選手か鈴鹿の山賊の女首領になるのが夢だったから、女の子は私と遊んでくれず男の子で遊び人ばかりが友達だった。まさにハグレ軍団であった。
 三年生のときクラスでスキーの歌(?)≠ェ大流行した。みんな歌っていたが、軍団のものは歌とは縁の遠い輩(やから)であった。ある日、偶然帰り一緒になったO君に教えて≠ニ言った。彼は礼儀正しく、成績もよく私たちのグループの人間とは全然違う。O君は気軽にOKしてくれた。
 「つらら、つつつつ、楽しいスキー…」
 ウルトラの音痴の私に、毎日帰りみち根気よく何度も何度も教えてくれた。
 四年生になると運動場を挟んだ北棟の教室に男子、南棟の教室に女子とそれぞれ別れ移った。男女共学でない時代で、その後同じ学校にいても言葉を交わす機会もなく卒業してしまった。
 よく出来たO君はN商に進学したと情報通のM子さんが教えてくれた。往年の小学校のあったところは今、県立文化会館になっている。あの登大路のスロープを歩きながら一小節ずつ繰り返し教えてくれたO君は戦死したと遠い昔に聞かされた。
 そして私たち軍団も私を除いてみんな、みんな戦場の露と消えていった。

昭和58年(1983年)3月24日 木曜日

奈良新聞のコラム「遠雷」に掲載(第62回)

掲載年リストへ   題名リストへ  前編へ  次編へ

©2008 Haruta Kazuko All Rights Reserved.