テニスに思う
治多 一子
「また何をやり出したの」
「テニス。今度テニススクールに入ったのよ」
「あんた、あんなチョンチョロのスカートはきなや。年やからな」
「無理して骨折っては駄目よ」
口々に友人は言いにくいことを言う。つい発作的にラケットを買ってしまったのでこんなことになったのである。コートで上手に打つ人の球を目で追いながら私は、またしてもYさんを思い出していた。
私が女学校を卒業した年、Yさんと知り合ったのである。彼女は女子専門学校を出て女子青年学校の先生をしていた。
色の白い二重マブタの美しいYさんはよく笑い朗らかな人で、私はまるでおない年のように親しくしてもらった。ある日ブラウスの袖(そで)をたくしあげ腕を見せつつ
「右手の方が太いでしょう」。
「ワア、本当だわ。どうして」
「テニスを五年間ずっとしていたから。そして右手の方が長いのよ」
彼女は神宮の選手だった。大正十三年の第一回明治神宮体育大会が新設の明治神宮外苑競技場で行われた。以後毎年十一月三日前後一週間全国の代表者が覇を競った。終戦後は二十一年から国民体育大会が催されるようになったが−。
当時運動するものにとって神宮に出るということは、野球するものが甲子園に出るのに勝るとも劣らないあこがれであった。Yさんがうらやましく、まぶしいように思われた。
そのYさんが微熱があるので休養していると聞き上京する前に訪れた。ヒョンなことから手相の話になり、彼女は
「私の生命線長いわよ。見てごらん」。
「ホント。凄(すご)い、手首のところまで来てるわ。百まで生きられるネ」
二人は顔見合わせ大笑いした。
夏休みに帰省した私はYさんに会いに行ったが、もう生きていなかった。当時の医療では胸を病んだ人を治すことが出来なかったのである。私の同級生の何人もが結核で夭折(ようせつ)している。今のように医学が進歩していたら死なずに済んだ人たちだったのに−。
これにつけても、医学にたずさわる人たちが人々のため今日難病とされるものを一日も早く克服してほしいと心から願う。
今日もあちこちのコートで白球が、黄球が弧を描いている。私は華やかであったろうYさんの少女時代を想像しながら二十代で世を去った佳人を偲(しの)んでいた。
昭和58年(1983年)11月5日 土曜日
奈良新聞のコラム「遠雷」に掲載(第67回)
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