遠雷(第68編)

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友 S

治多 一子

 「あっ痛い!」
 スリーミラーを目に入れられた私は思わず言った。お医者さんは、いささか呆(あき)れ顔で
 「さっき、小学生でも痛がらなかったですよ」
と言われた。あとでTに話すと、
 「大体、あんたは辛抱がなさ過ぎるのよ。ホンマに大げさで、ケタタマシイわ」
 しかし、私は友人Sのことが頭にあるからつい…。Sといえば、最初の級(クラス)会に
 「私の先輩の作ったのを歌います」
と言って「真白き富士の嶺」をしんみりと歌ったのが忘れられない。
 明治四十三年一月二十三日午後、七里が浜沖で開成中学所有のボートが沈没し中学生十一人、小学生一人の乗り組みの少年が全員溺死(できし)した。
 二月七日、逗子開成中学校庭で追善法要が行われ、この哀悼歌をSの母校鎌倉高女の女の先生が作詞され、最上級生全員によって歌われたのである。
 彼女の声を聞いて、みんな涙したのが忘れられない。卒業と同時に彼女は本籍地の青森県H高女に就職した。豊かな教養を身につけた彼女は随分生徒に人気があると聞き、さすがにSだなあと感心していた。
 だが、しばらくたって同級生が級会の折
 「Sさん辞めたということよ」
 「耳が聞こえなくなったのですって」
 キリッとした顔でスマートな彼女は元気な少年のようで、とても病におかされるように思えなかったのに、どうして胸をやられたのだろう。
 「マイシンで聴力をすっかりやられてしまったのよ」
 「辛抱強いから、だんだん耳が聞こえなくなるのに口に出さなかったのですって」
 そういえば寮で彼女が胃けいれんになり苦痛のためころげ回っているのについに一言も痛い≠ニ言わなかった。さらに件(くだん)の級友は
 「診察をうけていたお医者さんが、我慢しないで言ってくれたら、治療の方法などを考えたのに≠ニ言われたのですって」
と付け加えた。
 人それぞれ個人差があるからAには何でもないことでもBには体質的に極端に反応することだって、ままあると思う。
 患者がお医者さんに訴えることにより、それに応じた治療法、投薬法を講じてもらえるはずである。だから私はつい我慢せずそのまま口に出したまでである。
 それはそれとし、生徒たちの声が聞こえなくなったSは、みんなに惜しまれつつ教壇を去った。
 もう二度と教鞭(きょうべん)をとることはない。私はSの歌った「七里が浜の哀歌」とともに聴力を失った友の身を今日も悲しく思うのである。

昭和59年(1984年)1月12日 木曜日

奈良新聞のコラム「遠雷」に掲載(第68回)

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