遠雷(第70編)

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うどん

治多 一子

 わたしはメリケン粉に弱い。だから、うどんやパンは嫌いである。そんな私にMさんが、
 「Nの店ネ、冷しうどんを始めたんですって、ちょっと行ってみない」
 これも浮世の義理と、わが身に言い聞かせ食べに行った。本場讃岐から、冷凍で直送されたとのこと。うどんのコシがしっかりしていて、正にシコシコめんであった。それにおつゆもおいしい。
 ああ、このうどんの味
 この店のうどんは、遠い昔を思い起こさせた。あの東京大空襲の日、失明軍人寮からの飛び火で、私たちの寮は全焼した。住むところをなくしたので、かの有名な赤城山の麓(ふもと)に移り住むことになった。
 そこは、大きな種畜場のある群馬県富士見村である。場内の農業指導員養成所の道場で、私たちは午前中は授業。午後は種畜場や同村の農作業の手伝いをした。
 そこでは田んぼを耕すのに、牛の代わりを馬がしており、馬は田の隅は手(?)抜きをして、真中をパカパカ飛びはねていた。水田が少なく陸稲の多い土地柄で、小麦、そばが主要作物である。私たちは、何軒もの家に手伝いに行った。
 ある農家で、食事どき、手作りのうどんをいただいた。台所の板の間で、メリケン粉をねった玉に、籐(とう)か何かで編んだ、むしろのような大きいものを乗せて、足で踏みのばしておられた。そのうどんのおいしかったこと。
 「あのうどんの味は、忘れられないわネ」
と、後日、同じ班で働いた友が言った。
 当時、いろんなことがあった。前日まで眼下に見えた美しい町、前橋市が空襲で一夜にして赤茶けた色に変貌(へんぼう)したこと。山麓(さんろく)に駐屯していた陸軍の兵隊さんたちが、八月十五日以後も、降伏しないで戦おうと大騒ぎのあったこと。胸を病んだ友が、故郷へ去って行ってしまったこと…など。
 N店のうどんの味は、ゆくりなくも遠い昔の追憶に、私をいざなってくれたのである。
 人はそれぞれの忘れ得ぬ味を持つ。そして、それは単なる味ではなく、人生の味≠ナもある。

昭和59年(1984年)12月1日 土曜日

奈良新聞のコラム「風声」に掲載(第70回)

随筆集「遠雷」第35編

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